材質・書体…尽きぬ魅力
主人公は26歳で将棋のプロの道を閉ざされた竜介。将棋から距離を置こうとするが、ある日、大叔父が駒を作る職人(駒師)だったと知る。若くして戦死した彼の人生をたどるうち、竜介は将棋駒の魅力に目覚めていく。
「駒ってオブジェとしてもきれいで、美しい黄楊(ツゲ)材の駒で藤井聡太の棋譜を並べると楽しいんですよ」
物語前半、竜介が駒の材質や書体、歴史を知るほどに入れ込んでいく様子は、松浦さんの実体験がもとになっている。子供の頃から将棋やチェスが好きで、米国留学時代は現地のチェスクラブに通った。将棋はネットでたしなむ程度だったが、発作的に高級駒をひと組買ってから興味が増していった。
「眺めたり触ったりしているだけで楽しくて、次は違う書体のもの、なんて散財してしまって(笑い)。駒は文字を彫ってできるわけですが、小説や詩を書くのも、文字を彫りつけるような行為。石や木など堅牢なものにクッと彫りつけるのは文字の本来の使命だし、宿命だと思うんです」
竜介は細い糸をたどるように大叔父を知る人を訪ね歩く。兄弟子にあたる駒師と出会い、大叔父が才に恵まれ、自作の書体「無月」を彫り込んだ駒を残していたことを知る。探求の旅は国内だけでなく、シンガポール、マレーシア、ニューヨークへと続いていく。
本作はエンターテインメント性の強い作品だが、松浦作品の特徴は幻想味あふれる純文学。とはいえ近年の代表作『人外(にんがい)』もまた、四足獣のかたちをとる、人ならざる「それ」が荒廃した世界を彷徨(ほうこう)するロードムービー的な小説だった。
「小説はアクションが大切だから、世界をまたにかける冒険譚(たん)にしようと思ってました。『指輪物語』などでもそうですが、目的地へ向かって移動する身体的なアクションこそが物語の原型なんじゃないかな」
竜介は旅を続けることで、将棋界だけではわからなかった歴史や世界を知ることになる。果たして「無月」の駒は実在するのか。
「将棋の棋士たちは子供の頃からの顔なじみとずっと勝負を続ける特異な人生を送る。そこから挫折した竜介がどう立ち直るのか。この年になってしみじみと感じるのは、普通の人間の普通の人生というのは尊いなという思いですね」(野波健祐)=朝日新聞2022年6月1日掲載