熊野大学は「建物も入学試験もない、卒業は死ぬ時」とうたい、90年に中上が生まれ故郷で始めた。文化人を招き、講座を開く。ときに句会あり、ときに野球大会あり。2019年以降は台風やコロナ禍で中止が重なり、夏期開催は4年ぶりとなった。
長女で作家の中上紀(のり)さんは講演で父としての中上健次を振り返った。「父から大学を作ると聞いたとき、適当な思いつきを言っていると思った」と紀さん。「同時に壮大な思いつきは考え抜いた計画だろうとも思いました。そして実際に実現した」。一周忌以降の毎夏、参加している。濃密な言葉の海は紀さんを文筆の道へいざなった。
「熊野大学は父に会う場所であり、同時に父が抱いた志を再確認する場所でした」と紀さん。「30年たった今、我々の世界は権力への忖度(そんたく)や暴力への屈服がはびこっている。健次の残した宿題は、いつまでも終わらない」
今回初めて登壇した、作家で詩人の松浦寿輝さんは、「中上健次の『文』」と題して講演をした。中上との出会いは89年、欧州で日本をテーマにしたフェスティバルに参加したとき。「朝食の席で一緒になると気さくで優しかった。かすかな接点だが強い印象を残した。中上さんは巨大な文学の魂。まがまがしい神のようで、近づけばやけどしそうだと思っていました」
中上文学とは距離を置いていた松浦さんが今回参加したのは、30年という時間の経過が決め手の一つだったという。「生々しい記憶は薄れていくが、作品は残る。これからどういう読み方がありうるのか、新しい読者に試される。中上と熊野を切断して考えてみるのも面白いのではないか」と意表を突く問いを投げかけた。
注目したのは句点の打ち方。「中上さんの文章は、コルトレーンやアイラーのフリージャズのようにどこまでも自由なインプロビゼーションが続いていく」。『千年の愉楽』(82年)を取り上げ、丁寧に読んでいく。あの濃密な文章はどのように生まれたのか。「書いている現場を想像すると戦慄(せんりつ)する。博学で聡明(そうめい)な人だったが、知識や教養だけで書けるものでない。思考で捉えきれない、偶然の出来事を文章に誘い込む技術があった」
「修験」の生原稿、寄贈 元編集者が保管、原稿用紙20枚
没後30年に、中上家にはうれしい知らせが届いた。初期の短編「修験」の生原稿を編集者が保存しており、家族や関係者で構成する中上健次顕彰委員会にこのほど寄贈された。
「修験」は1974年に河出書房新社の文芸誌「文芸」に発表され、78年刊の短編集『化粧』に収録された。保管していたのは同社編集者でのちの文芸評論家川西政明さん。2016年に川西さんが亡くなり、今年6月、川西さんの遺族から中上家に寄贈したいとの申し入れがあった。所有の経緯は不明という。
400字詰め原稿用紙20枚。普段は集計用紙で執筆していた中上にとって、原稿用紙の生原稿は珍しいという。本人による直しのほか、出版社の朱も入っている。妻で作家の紀和鏡さんは「6枚目で万年筆がボールペンに変わっている。時間に追われて一気に書いたのだろうか」と語った。(中村真理子)=朝日新聞2022年8月17日掲載