ひとは一貫した考えをもって一つの時間の上を前へ前へと線状に進むものではない。近頃、「ネガティブ・ケイパビリティ(消極的受容力)」という言葉を耳にする。元は英国詩人キーツが言いだしたもので、“性急に答えに飛びつかず、不可解さに耐えて考え続ける力”を意味する。複雑なものを前に立ち止まり、迷い、蛇行し、沈思する。そうした時の滞留の中でしか見出(みいだ)せないこともあるのではないか。
しかし小説内では、物事を収拾し解決するために、時間や思考が整理されることがある。その結果の淀(よど)みない結論づけや明確な結末はある種の快感を誘う。「巧みな伏線回収」が評価されるのもそのためだろう。
そうした快さに逆らうかのように、人間のもつ矛盾や齟齬(そご)をそのままに描いた小説が最近目につく。カルト宗教やメリトクラシー(能力成果主義)などを題材にした作品集『信仰』(文芸春秋)の著者村田沙耶香はインタビューで、「速度の速い正しさは怖い」と述べ、本書収録の「気持ちよさという罪」というエッセーでは、「自分にとって気持ちがいい多様性」に負けるのを恐れていると書く。多様性までも「ちょうどいい」範囲にまとめようとする正義の独善性を指摘するものだろう。
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そうした意味では、古谷田奈月『フィールダー』(集英社)は物語収束の快さを放擲(ほうてき)するような、大胆な小説といえる。主人公の39歳の橘(たちばな)はスマホゲーム「リンドグランド」の迎撃団員(フィールダー)として生きながら、現実というもう一つの世界にも身を置く。大手出版「立象社(りっしょうしゃ)」で人々の基本的人権を護(まも)る小冊子の編集に携わるが、長年担当してきた児童福祉専門家の女性に小児性愛の疑いが浮上。本人によれば、相手の女児は家庭でネグレクトされ愛情を求めており、性的な接触ではなかったと。弱者の人権を追求してきた橘は板挟みになる。
立象社自体が、あらゆる醜い欲と美しい理念とが対立する矛盾の巨大な塊として描かれる。スキャンダルを追いかける週刊誌、そのやり方に異を唱える文芸誌、性描写で始終ネット炎上している少年漫画誌、同性愛差別の発言をする社長……。
一方、リンドグランドで過ごす橘は、生き甲斐(がい)を与えてくれるチームの隊長がわずか16歳の少年であり、母親により家に幽閉されている事実に気づく。すると、少年をかわいく思う痛切な気持ちが橘の中で膨れあがり、戸惑いを覚える。
立象社の抱える矛盾に一体どう筋を通すのかと迫られた橘は、意外な答えを口にする。それは無責任な物言いに聞こえるかもしれないが、思考を放棄し問題に背を向けるということでは決してない。「複雑なことを複雑なまま伝えないから自殺や差別がなくならない」という彼の言葉が重く響く。
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しかも正しさは時代によってあっさり転変する。金原ひとみ「ウィーウァームス」(文芸秋号)はそうした変化にいち早く適応してきた作家を主人公に、自由意思とは何かを問う。以前は許容範囲だった夫のだらしなさが急に許せなくなり、現在の恋人との関係は「時代に合って」いたはずなのに、彼が昨今のハラスメント問題をろくに考えていないと知ったとたん、まるでドーナツ店の列に並んでいる途中で「鹿の群れに巻き込まれて何百もの蹄(ひづめ)で踏みつけられたような衝撃」を受けるのである。ひとは頭も心も一貫せず、時代と環境の趨勢(すうせい)に塑型(そけい)されているだけなのか。背筋が薄ら寒くなる秀作だ。
滝口悠生『水平線』(新潮社)は生者と死者の時間と思念の境界をほどき、その交錯をゆるやかに描く。戦中に硫黄島から強制疎開した島民とその先祖、子孫、4代にわたる物語だ。38歳のフリーライター横多平(よこたたいら)、妹でパン屋店長の三森来未(みつもりくるみ)。平の元には半世紀も前に蒸発した大叔母から手紙が届き、来未の元には硫黄島で没したはずの大叔父から電話がある。どこまで行っても波が寄せては返す海の上では、「時間がひとつところにとどまっているわけがない」と、ある人物が言う。
時空はひずんで分岐し、語りの主体はぶれ、人称は揺れる。反復と食い違いがあり、兄妹でさえも同じ世界線にはいないらしい。Googleマップで最短距離を進んでいく合理性とは対極にある造りだ。不意に現れる「私」という主語、読み手に話しかけてくるような口調。遠い誰かと繫(つな)がろうとする意思が、錯綜(さくそう)した語りの層の奥から滲(にじ)みだす。滝口悠生らしさを突き詰めた長編である。=朝日新聞2022年8月31日掲載