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翻訳という冒険 閉域から壁の向こうへ出る 都甲幸治〈朝日新聞文芸時評25年5月〉

絵・大村雪乃

 日々の繰り返しの中で、次第に閉塞(へいそく)感が高まってくる。学校でも職場でも、もとは自分から喜んで入った場所なのに、気づけば閉じ込められていると感じてしまう。だがそもそも我々は、日本語という閉域の中に生まれたのではないか。だからこそ翻訳は、壁の向こうへ出ることの有効な比喩となる。

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 ジュンパ・ラヒリは『翻訳する私』(小川高義訳、新潮社)で、翻訳こそ自分の人生だと語る。インドからの移民である両親のもと、ロンドンで生まれアメリカで育った彼女は、常に英語とベンガル語という二つの言葉の間を翻訳しながら育った。だがどんなに完璧な英語を話しても、アメリカでは外国人扱いされ、どんなに努力をしても両親には完璧なインド人とは認められない。

 それではどうすればいいのか。イタリア語の作家になってしまおう、というのがラヒリの答えである。「イタリア語で読んで書いて生きていると、心の働きが良くなって、好奇心も旺盛に、読んで書いて生きられる気がする」。血統にも国籍にも根拠を持たない、ただ好きなだけのイタリア語に自分を接ぎ木する。そしてイタリア語で小説を書き、イタリア文学を英語に翻訳する。ついにはイタリア語で書いた自作を英語に訳してしまう。人は運命に与えられたものに甘んじなくてもいいのではないか。ラヒリの言葉は、息苦しい状況にいる我々の心に風を吹きこむ。

 大崎清夏の短編「忘れもの」(「文芸」夏号)の主人公である女性は、バスという大きな箱の中にいる。仕事帰りで疲れ切った彼女は「おっしょっしゃー、あしゃしゃー」という意味不明なアナウンスを聞きながら、今日の送別会を思い出す。

 三十歳で潑剌(はつらつ)としており、社内の男性たちからも人気があった平賀さんは、会社を辞めて大学院に戻ることになった。かつて大学でアラビア語を学んでいたらしい彼女は、大学院でもそうした研究を続けるのかもしれない。それに比べて自分はどうだ。就職とともに一人暮らしを始めたが、気味の悪い男に付きまとわれて、半年も経たないうちに自分と母親だけが住む実家に舞い戻った。

 「平賀さんと私の何が違うっていうのだろう」。平賀さんが置いていった、花束を包む紙袋の縁で顎(あご)を刺しながら主人公は思う。だが作品中に描かれた不自然な明るさから、平賀さんもまた苦しみを抱いていたことがわかる。主人公の想像の中で、彼女はアラビア語の世界へ旅立った。そして運転手の異言に誘われた主人公も今後、文学という非日常の言葉の世界へ旅立つのかもしれない。

 石田夏穂『冷ややかな悪魔』(U―NEXT)で商社員のユカリは苦境に陥る。体脂肪率三十%以上の社員は海外派遣できないという新ルールにより、本社に止め置かれることになったのだ。これが苦痛で仕方がない。海外の支店では英語力を駆使して驚異的な交渉力を発揮する有能な彼女も、いまだに昭和ノリの本社では、「『婚期』を逃した憐(あわ)れな女」としか扱われないからだ。

 この状況を打開するべく、会社指定のジムでギャルっぽいトレーナーの白井とタッグを組んだユカリは肉体改造の旅に出る。それだけではない。たまたま自販機の前で拾った他人の結婚指輪で武装し、架空の夫の話を繰り広げる。やがてユカリは事実婚をしていて子どももいる、という噂(うわさ)が本社に広がると、周囲の扱いが変わる。こんなこと全部間違っている。指輪を外したユカリが、筋トレで負傷した脚でピンと直立するシーンは圧巻だ。彼女はその二本の脚で、会社の壁を、そして日本語の壁を乗り越えていくのだろう。

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 『わたしハ強ク・歌ウ』(河出書房新社)で山下澄人は、日本の現代小説という枠から出ようとしている。そのために彼は、本作を『アンネの日記』とベケット『モロイ』という二つの作品の翻訳として書いていく。だからこそ、コロナウイルスで皆が家に閉じこめられた日本はアンネの隠れ家に繫(つな)がり、そして親子がモロイを探す旅は、サキという場所への移動に変換される。

 本作から僕は、ベケットの『ゴドーを待ちながら』を読む体験を思い出した。全体として何をしているのか分からないのに、鮮烈な印象を残すシーンがいくつも迫ってくる。夢を見ているママのまぶたの下で目玉が動く。ナチスの制服の記憶から透明な殺意が湧き出す。考えずに、まずは感じること。ここには、演劇として構成された文学作品がある。=朝日新聞2025年5月30日掲載