
新型コロナウイルスのパンデミック初期にさまざまなイベントがオンライン化した。その種のイベントの一つに作家として参加した際、担当者から「こうしたほうが顔が綺麗(きれい)に映ります。たとえば、光源は後ろに置かずに――」等と指導された。鬱陶(うっとう)しかった。肝心なのは語る言葉、つまり内容だろう? しかし中身よりも見た目なのだ。自分はバカげた時代にいるぞと感じた。それと自分の家(居住空間)からの出演にもかかわらず、他者の目を気にするという事態も本質的な困惑を惹起(じゃっき)した。
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吉村萬壱「臍(へそ)」(「文学界」四月号)は四十歳の娘と両親とが暮らす家から母が失われる、その六十七歳の母親の浴室での死が描写されるシーンから始まる。これは母のいる家が母のいない家に変わったことを意味する。意識されるのは「何かが欠如した」との現実である。と同時に、何事かが消え失せるとそれまでは目に入らなかった事象が見え出す。母親が不在になることで“母”が塞いできていた他者たちの視線が異様に強調されるというような事態だ。そこから陰謀論(たとえば世界には「人間を挽肉(ひきにく)にする」秘密機関が存在する等)に向かうのは極めてスムーズで、だがこの短篇(たんぺん)の捻(ひね)りは、主人公があえて世界全体の“フェイク化”を欲しているとの点にある。母を失った娘はむしろ意志力によって妄想を現出させているのだ。社会が本当に病んでいる時、人はそうそう簡単には病まないとも言い切っているようで、作品がまとう軽さ明るさは現実世界の重苦しさを憫笑(びんしょう)している。
いっぽう、病んだり疲れたりするのは個人なのであって社会ではないとの前提に立つ時、人はどうにか自分を癒やして括弧付きの“現実”に復帰しなければならない。そのために人間が冬眠するようになったとの設定が描かれるのはパク・ソルメ『影犬は時間の約束を破らない』(斎藤真理子訳、河出書房新社)で、しかし冬眠者には見守り役のガイドが不可欠となる。すると「眠る人間」とそれを「観察する人間」が同じ空間にいつづけることになる。居住空間をともにしながら二人は別々の時間を生きる。が、本当にそうなのか? 日本語版に書き下ろされた新作「旭川にて」がこの連作集のお終(しま)いに収録されているが、そこでは「冬眠する友人が昔知っていた、今は亡き人物の二階建ての家」にガイドも冬眠者も滞在する。見守りの仕事をするガイドの主人公はじきに友人の中高生時代のようにもその家で過ごすし、むしろ“家”の本来の家族、その関係者のような体感も持ちはじめる。ここでは二人どころかその何倍もの数の人間たちの「生きていた」時間がスムーズに束ねられるのだ。
小山内恵美子「人心地」(「すばる」四月号)はそんな希望は描かない。自分の家とはむき出しの“私”がのびのび存在できる勢力範囲だとされているから、そこに突然大学生の姪(めい)が押しかけてくると“私”の日常は当然のように崩壊するし、精神もまた然(しか)り。侵蝕(しんしょく)されるとは具体的にどういうことか、を、我が家の床に他人の髪の毛が“異物”として発見されることだとこの短篇は描き切る。高瀬隼子「妖精の羽ばたき」(「文学界」四月号)では、自分には職場である空間が他人にはそう捉えられないとの事態を大学のキャンパスを通して描いている。そこは学生たちの家さながらであり、清掃の仕事で同じキャンパスにいる中高年の主人公たちは異物視される。苛立(いらだ)ちのリアルさが突出する。柴崎友香『遠くまで歩く』(中央公論新社)はパンデミックの初期~中期からドラマが始まり、主人公の作家の家にはオンライン講座の画面を通して“他者の現在(リアル)”がつねに入り込む。家の内側にコンピュータがあり、画面の内側に他者の家が幾つもあるという事態は結局、この時代のどんな本質に連なっているのか? しかし小説はむしろ時代を超えて踏まれつづける道――現実世界の道路――について語って、静かに希望を選びとる。
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自分がこの文芸時評を担当するのはこれが最後となる。二年間の雑感で締めたい。いや、雑感などという生煮えな表現は捨てて、真剣に要望を書きたい。それまでの文学(近代文学)は終焉(しゅうえん)して、新しい文学の種を蒔(ま)いている書き手は何人もいた。しかし土壌がない。彼ら彼女らは舗装道路の上に種を蒔いている。自分としては文芸誌と文芸ジャーナリズムに“土”になってもらいたい。視野狭窄(きょうさく)はやめてもらいたい。単に足下のアスファルトを剝げばいいのだ。=朝日新聞2025年3月28日掲載
◆「文芸時評」は4月から翻訳家で米文学者の都甲幸治さんが担当します。
