「死ぬ」からはじまった作家生命
――『透明な膜を隔てながら』は、各章のタイトルに「声」「生」「性」「省」「星」「静」と「せい」と読める漢字を使っています。
デビュー作『独り舞』からセクシュアルマイノリティの生と性を描いてきたので、エッセイ集でもいろんな「せい」を拾おうと考えました。生命の「生」と性別の「性」は中国語では別の読みで、同音なのは日本語だけ。その偶然も生かしています。
――音に着目したんですね。「独り舞」も「死ぬ」という日本語から着想を得た小説でした。
そうですね。日本で就職したばかりの2016年4月、ふと「死ぬ」という言葉が空から降ってきました。
「死ぬ」という言葉の持つ不思議な語感を独り味わっているうちに、これは一つの小説の始まりになりそうな予感が湧き、そんな微かな予感を頼りに、私は原稿用紙に文字を刻み始めた。そうして「死ぬ」という一語で始まった小説は、後に『独り舞』というタイトルがつき、文学賞で選ばれ、私に作家という肩書をもたらした。
(「死と生の随想 『生を祝う』刊行に寄せて」より)
デビュー作の冒頭が「死ぬ」で、2021年に刊行した6冊目の小説が『生を祝う』。死から生へと流れている。計画していたわけではありませんが、自分はこういうことを書いているんだなと思いました。
――エッセイ集を読むと、生と死をはじめ、言語や国籍、セクシュアリティーなど、小説で重要なテーマについて李さんが考え続けていることがわかります。
これまでに書いてきたことはどれも大きな視点で見るとカテゴライズの問題につながっています。「私にはもっといろんな可能性があるのになんで分類しようとするの」という、カテゴライズされることへの抵抗感が昔からずっとあるんですね。
その最たるものが国です。「小さな語りのために、あるいは自由への信仰」という、2022年3月に朝日新聞に寄稿したエッセイがあります。いろんな国同士の戦争が起きている中で、いかに個人として生きるか、自由でいようとするかという個人的な考察や意志表明を書きました。私たちは国籍を含めいろんな属性をまとって生きているので、属性同士、国同士の戦争や衝突が起きると、あなたはどっち側だ? と問いただされがちです。ただ、本来私たちは一人一人の個人。もっと自由に生きることはできないのか、ずっと考えています。
カテゴリーは諸刃の剣
――まさに戦争は個人が「国」という大きな属性に還元されてしまうものですね。ジェンダーやセクシュアリティーでも同様にカテゴライズの苦しさがあるのでしょうか。
そうですね。男性女性、同性愛異性愛などいろんなカテゴリーがありますが、究極的なことを言えばみんな「人間」です。カテゴライズしないと世界が複雑すぎて到底処理できないですし、カテゴリーが存在していることは、自分は1人ではないことの証左になります。帰属感や安心感を与えてくれるけど、「このカテゴリーの人だったらこうあるべき」という押し付けになると息苦しくなる。カテゴリーは双刃の剣ですね。
――新宿二丁目を舞台にした群像劇『ポラリスが降り注ぐ夜』では、安心感と息苦しさのせめぎ合いが描かれていました。私たちはカテゴリーとどう付き合っていけばいいのでしょう?
カテゴリーに頼りつつ、個人は個人であることを忘れないのが大切ではないでしょうか。同じカテゴリーの中でも、一人一人は違うんだという意識を常に持って、ステレオタイプや偏見に気をつける。人間はおそらく根本的に理解し合うのは難しいですが、それでもカテゴリーではなく個人として認識し、理解しようとすることが一つの解なのだと思っています。
インターネット上で勃発しているさまざまな論戦も、結局カテゴリーの問題に還元されるんですよね。双方が相手を均質化された属性としてしか見ていないので、「この属性だったらこうだろう」という単純な話ばかりになります。本当は一人一人違う人生経験を持っているんだから、もっといろんなことについて繊細に、丁寧に対話しないといけないのに。人間を人間としてではなく、カテゴリーによって得体の知れない獣として見た時、争いが起こるのだと思います。
――時には「カテゴリーを引き直す」という発想も必要になってくるのでしょうか。
場合によっては必要になるでしょう。例えば、差別は生物学や自然科学の名を騙って姿をあらわすことがあります。優生思想や「(LGBTは)種の保存に背く」といった発言も、生物学の悪用ですよね。なぜかというと、生物学よりも先に人間の存在があるから。人間が、世界が、生物が先にある。それを理解するために学問が存在しています。学問で実在している人を規定しようとするのはそもそも本末転倒です。
いろんな動物が同性同士でも交尾することは、現在の生物学の研究で明らかになっています。そこでは「今までの生物学に当てはまらないから逸脱だ」と言うのではなく、見落とされてきたものを再発見する必要があります。人間の世界でも同じです。現在の線引きが不適切なのであれば、線自体を再考する必要があると思います。
小説の役割は、世界に対する違和感の表現
――エッセイ集のまえがきでは、「小説は『問』で、エッセイは『解』」とも書いていました。小説は問いを投げかけるものという価値観は何の影響なのでしょう?
日本文学だと思います。村上龍さんが過去に芥川賞の選評で「私見だが、小説は『言いたいことを言う』ための表現手段ではない。言いたいことがある人は、駅前の広場で拡声器で叫べばいいと思う。だが、『伝えたいこと』はある」と書いていました。
何かをストレートに表現するのは小説の主な役割ではないのかもしれません。では何が役割かと言うと、一種の思考実験や、世界に対する違和感の表現です。違和感というのは、それ自体が一種の問いです。なぜこの世界はこうなっているか、なぜ自分はこのように生きているか。時には些細な、時には大きな違和感を一種の問いとして、小説という形態で放出するのが、私がやっていることなのだと思います。『彼岸花が咲く島』や『生を祝う』も、解のない問いを投げかけていますね。
――「違和感」は李さんの作品を読み解くキーワードですよね。収録されている芥川賞受賞スピーチも「生まれてこなければよかった」という、生への違和感をあらわす一文からはじまっていました。
女性、外国人、性的マイノリティと、多重マイノリティであることが違和感に影響していると思います。「インターセクショナリティ(交差性)」という、フェミニズムや人種差別の分野で注目されている概念があります。これはさまざまなマイノリティ属性が組み合わさると、複層的な差別や固有の困難が生まれることを理解するためのもの。私は小説でもこのことを描いていて、登場人物もさまざまなマイノリティ属性を背負っている人が多いです。一方、なかなかこのインターセクショナリティを描いた小説は見かけないのが率直な感想ですね。
日本文学が現実社会とつながっていない
――本書には作家の王谷晶さんとの対談も収録されています。2人ともマイノリティを描く作家としてカテゴライズされている中で、それぞれどのように描いているかなどが話されていました。
王谷さんの『完璧じゃない、あたしたち』という短編集は本当にいろいろな声が響いていますよね。私と王谷さんはセクシュアリティーは同じかもしれませんが、書いているものも、作風も、ジャンルも違います。カテゴリーが同じでも、個人としての表現はまったく違うものになるんです。
――対談で李さんが「日本の文学はポリティカルを避けている」と言っていたのが印象的でした。
日本文学は政治を書かないというより、文学という箱が現実社会とつながっていない気がします。ジャーナリストの北丸雄二さんの言葉を借りると、「〈公〉の言葉と〈私〉の言葉が接続されていない」。文学や小説は徹底的に〈私〉の言葉として存在していて、〈公〉の場に対して働きかける力を持っていない、あるいは持たないようにされている側面があると感じます。
そうなると、LGBTの問題を考える上でも特殊性が失われてしまうんですよね。特殊性をもたらしている構造やスティグマを批判的に見る手段が失われ、よくある「同性愛の話じゃなくて普遍的な人間の愛の話だ」みたいな語りに回収されていく。その危険性は常に感じています。みんなもっと気をつけてくれよと思います。
とはいえ、誰しも完璧はありません。自分の理解が至らないことは絶対にあるので、読者の感想や、批評、評論などを通して全体を向上させていくことが必要です。
――作家だけでなく読者や批評家、文壇が意識を変えていく必要がありますね。
先日「表現の現場 ジェンダーバランス白書2022」の調査で、日本の文芸評論は主要な賞の審査員のうち94.7%、大賞受賞者の75.8%が男性という結果が出ました。もっといろんな声を拾える評論界でないと、作家や読者、批評家がお互いに向上していく互恵関係は目指せないと感じます。
透明な膜の向こう側へ
――フランス文学者で、李さんが群像新人文学賞からデビューした際に選考委員を務めていた野崎歓さんとの対談も収録しています。過去作を順に振り返る内容でしたが、改めて一作ずつ振り返って気づいたことはありますか?
『独り舞』について話す中で「存在の偶然性と不条理性」という言葉が出た時、「これだな」と思いました。私はずっとこのことについて書いていたんだなと。『生を祝う』も自分で生まれるか決められる世界で、それは出生の偶然性や不条理さを排除した時にどんな世界ができるのか、という思考実験です。通底していると感じましたね。
――最後に、タイトルの『透明な膜を隔てながら』についてうかがいます。これは李さんが最初に書いたエッセイから取ったものですね。
エッセイの「透明な膜を隔てながら」では、自分と日本語の間にある隔たりを「言葉の壁」というような安易な表現ではなく「透明な膜」になぞらえました。今では、これを言語間だけでなくさまざまなマイノリティ属性であることによる「隔たり」に広げて考えています。
隔たりの感覚は大前提で、この世界からカテゴリーが、私たちを縛り付けるものが、一切なくなることはありません。生きている限り、あるいは死んでもあるでしょう。でも、その息苦しさゆえに何かを表現したい欲求が生まれるのだろうし、隔たりの向こう側へ言葉を届けようとするのだと思います。