理想的な夫婦ではないけれど
――本作は、実在した人物をモデルに、男女3人の特別な関係を描いた作品です。講演会をきっかけに、作家としての才能にも、男と女としても惹かれ合っていくみはると篤郎。広末さんは、その篤郎の妻で、ふたりの関係を何となく察しながらも、黙認し続けるという役どころでした。
笙子を演じて思ったことは、篤郎さんが私の旦那さんじゃなくてよかったなということです(笑)。篤郎と笙子は世間一般の夫婦の形とはかけ離れていて、大半の方々は理解に苦しむと思います。「このふたりは理想的な夫婦だと思いますか?」と聞かれたら、もちろん違いますが、どうしても憎めない少年のような篤郎を前にすると母性本能をくすぐられたり、男としての彼に迫られると心許してしまったりする笙子の気持ちは分かる気がします。夫婦だけど常に夫に恋をしているような感覚は、ある意味、妻としても女性としても幸せなのかもしれませんね。
――みはるとの関係を続けながら、篤郎は愛人が途切れることなく、それを隠そうともしません。笙子はそんな篤郎の破天荒な生き方をどこか受容し、理解していますね。
私は彼女を演じる中で、篤郎への尊敬と愛情を大切にしていました。笙子は一見、古風で3歩下がって後ろを歩く女性のように見えますが、どこか篤郎を「自分として感じている」気がします。笙子は篤郎の生き様や経験、抱える孤独感、その全てを理解したかったし、彼の感情を共有したかった。だから夫の浮気に対しても、本来妻としては、激怒したり嫉妬したりするのに、どこか客観的に彼の魅力として捉えていたかもしれないですね。
――篤郎との関係にけじめをつけるため、みはるは出家することを決意して、3人の関係も少しずつ変化していきます。みはるという女性にはどのような印象を持ちましたか?
初めてみはるさんに会ったときのキラキラとした可愛らしさに、「妻の立場とは?」「婚姻の意味は?」と考えた笙子にとっては、その時から彼女に他の浮気相手とは違うものを感じていたのだと思います。出家という自分にはできないことをしてしまうところも含めて、みはるさんには圧倒的な違いを感じたのだと思います。
「あちらにいる鬼」とは
――改めて、この物語におけるみはると笙子、篤郎の3人の関係性についてどう思われますか?
先ほど、寺島(しのぶ)さんとお話した時に「この3人の関係は何のお手本にもなりません」と仰っていました(笑)。でもいつか3人が同じ墓地でお酒を飲んでいる画を、演じ終わった今なら想像ができますね。
この3人は実在した人物たちですが、作品はフィクションなので、自分だったら誰に感情移入するのか、パートナーとどのように関わっていけばいいのか、女性としてどうありたいかということをしっかり投げかけてくれる映画だと思いますし、私自身も考えることが多い作品でした。最初に台本を読み終わったときに、圧倒的なメッセージと衝撃を受けたのを覚えています。結婚や恋愛、嫉妬という感情的なものを超越した人同士の繋がりや、誰かを愛しく思う気持ちといった普遍的なメッセージをこの3人の関係性から受け取った感覚でした。そこがフィクションの良さであり、映画の良さだと思うので、みなさんそれぞれがこの3人を通して何かを感じ、考えるきっかけになってもらえたら嬉しいです。
――本作のタイトル「あちらにいる鬼」の意味を、広末さんはどのように考察されますか。
「鬼って誰のことなのかな?」と考えていたんですけど、撮影中に、監督の廣木(隆一)さんが笙子のことを「あぁ、怖いな」と何度も仰ったんです。私は夫の浮気を、ただ耐え忍んでいる姿を演じていただけなのに(笑)、男の人からするとその何も言わないのが、笙子の奥底に潜んでいる「鬼」だと感じて、怖いのかもしれませんね。
哲学書でクールダウン
――この3人に共通しているのが“小説を書く”ということですが、広末さんも、エッセイ『ヒロスエの思考地図 しあわせのかたち』(宝島社)を4月に上梓されました。文章を書くという経験をしてみて、いかがでしたか?
自分の思いや言葉を文章に書き出すことは不安だらけでした。特に若い時は自分の書いた文章を人に見せることが恥ずかしかったんです。人からどう評価されるかと思ったら、恐ろしくて。でも、この年齢になったら「うまく書かなきゃいけない」とか「評価されたい」ということではなく、同世代の女性に少しでも元気になってもらえたり、育児をしている方たちに共感してもらえたりできるなら、とトライしてみました。
執筆中は普段よりも自分と向き合う時間ができましたね。これまでのことを思い返すことで自分の過去を整理できた気がするし、アルバムをめくり返しているような感覚でした。
――学生のころは、哲学書を持ち歩いていた時期があったとか。
私はスポーツしかしていなくて、本を全く読んでこなかったんです。読書が好きになったのは、このお仕事を始めた高校生くらいでした。出演する作品の原作を読むことが多く、映画やドラマの台本は、恋愛や家族のこと、人の死など喜怒哀楽がはっきりしている文章が多かったので、自分の感情を持っていかれるような気がして。その反動で心理学や哲学書が好きになったんだと思います。自分の気持ちは持っていかれないけど、頭の中の整理ができて感情のクールダウンができるような感じがしました。
――特に影響を受けた、思い出に残っている作品を教えてください。
哲学書の導入になったのは『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル 著)だったと思います。中学2、3年生の時に読んで、そこから哲学に興味を持ちました。お仕事を始めた高校生くらいからは、取材などでアウトプットばかりして、知識も言葉も表現力も足りないことを不安に思っていたんです。そんな時に、ドイツの哲学者・イマヌエル・カントの『純粋理性批判』や、『カントの時間論』(中島義道著)をよく読んでいました。
――哲学書に興味を持ってからは、小説の読み方も変わったのですか。
そうですね。もっと言葉を知りたい、原作がどういう風に映像と繋がるのかを知りたい、感じたいという感覚で小説も読むようになりました。最初は文章や言葉と向き合うことが難しかったのですが、想像しながら読み、映像につながることで、感情をどういう風に言葉で表現するのかの終着点をみつけたような気がしました。
――広末さんが読書から得たものって何でしょう。
私は読んだ本に線を引く癖がついていて、昔読んでいた本を今改めて開いてみると「あの時の私は、こういう言葉に引っかかっていたんだ」と思い出すんです。それだけたくさんの言葉に支えられて、助けられてきました。若い頃に桃井かおりさんから、ご著書の『賢いオッパイ』を頂いて読んだんですけど、サバサバした文体でかおりさんらしいポジティブなメッセージが書かれていて、たくさん線を引いていました。
『抱くことば』(ダライ・ラマ14世)も素敵な言葉がたくさん載っているので好きな一冊です。ドラマも映画もそうなんですけど、見たタイミングや年齢によって感じ方が全然変わりますよね。最近は昔読んでいた本を今また開いてみるのもいいかなと思っています。