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彩瀬まるさん「かんむり」インタビュー 女も男も、何歳でも好きでいい、パートナーの「体」

夫の体が大好きな妻

――『かんむり』は、光と虎治という一組の夫婦を、出会いから結婚、晩年にいたるまで描いた物語ですが、なぜこのモチーフを選んだのでしょうか。

 「夫のことも好きだし、夫の体のこともめちゃくちゃ好きな妻」を書いてみたらどうだろうと思ったのがきっかけです。女性側は体が魅力的かどうかってすごく査定されるじゃないですか。やせていて、スタイルがよくて、肌がきれいで……って体に対するオーダーが当たり前にある。一方、男性の体に対して女性がどういうふうに魅力を感じればいいのかっていうのはあまり表になっていないと感じたんです。女性は男性のふるまいや言動には注目してきたけれど、体には目を向けてこなかった。そこが男女対称になったら、なにか面白いことが見えてくる気がしたんです。

――なるほど。たしかに光は10代の虎治には10代の、70代の虎治には70代の、体の愛でるポイントを見つけていましたね。アパレルショップで働く光は、おじさん・おばさん体型のマネキンがあってもいいのでは、と会社に提案します。ここでも「体」がテーマとなっていますね。

 「男性の体」「女性の体」ってイメージしたときに、20代のシュッとした標準体型を思い浮かべませんか。マネキンも大体そういう体型なんですよね。体が年を取っていくイメージが社会で共有されていないと感じます。中年になって代謝が落ち、たるんだお腹になるのは自然なことなのに、世の中の商品は、若々しくあるべきという圧をかけてくる。

 だからといって、パートナーの体の加齢による変化を社会の査定で見たくない。若い頃の体と年を取ってからの体、どちらに対しても愛おしさを持ち続けたいんだけれど、それにはどんな軸が必要なんだろう……、それを書きながら探っていきました。

 若い頃の光は、セックスの最中に「ひまだな、どう楽しめばいいかわからない」と感じます。夫の体の楽しみ方を、社会が全然提供してくれないので自分で見つけなくちゃいけないんです。一方、虎治は、光がセックスを盛り上げようと「シャツガーターをつけて」とお願いすると、それを付けて「わちょー!」とポーズをとり、ふざけます。あのシーンは書いていて腹が立ちました(笑)。パートナーが性にまつわる真面目な提案をしたとき、それを茶化して台無しにするのはずるいと思います。この二人が年を経るにつれ、お互いの体の楽しみ方をわかり、さらに楽しもうとする相手を受容できたらいいなと思いながら書いていきました。

お互いをずっと好きでいるのが難しい「環境」

――物語の中盤、水泳教室でいじめに遭った息子・新(あらた)が教室をやめようとすると、虎治は「逃げるのか」と追い詰め、光は違和感を抱きます。夫の仕事に合わせて、自分の仕事での挑戦を諦めたり、育児を当たり前に引き受けたりすることにも苛立ちます。浮気も不倫もない夫婦がすれ違っていく様がリアルでした。

 虎治も光も悪い人ではない。会話もできるし、自分のできる範囲で相手を慮ろうとしている二人です。でも、こじれてしまう。それは、夫は夫の、妻は妻の、当たり前に見てきた景色が違うからだと感じました。

 台所でおばあちゃんとお母さんが料理を作っていて、おとうさんやおじいちゃんはテーブルでそれを待ってる。女性はケア役が当たり前だっていう景色を、光は刷り込まれてるんですよね。では虎治側の景色はというと、部活や体育の授業での景色が女子のそれとは違う。指導で当たり前に殴られたり怒鳴られたりする。今でも男子には上半身裸で組体操させる学校もあるじゃないですか。裸になりたくない人もいるはずなのに、男性の体って粗雑に扱われるんですよね。その粗雑や乱暴に耐えてこそ一人前の男だっていう景色の中で虎治は育ってきた。だから新に対して「逃げるな」と言ってしまう。

 この夫婦を書きながら、お互いをずっと好きなままでいるのは難しい環境に私たちはいるんだと感じました。個人のせいだけではなく、そういう「環境」にいるんだと。

夫婦で崩す「日本人は均一イメージ」

――プラスサイズのマネキンを提案したことを「社会へのアクション」と言われ、「大げさだな」と思っていた光が、「自分のために行動するって発想自体、わがままで不遜なことだといつのまにか思っていたんだろうか」と自問するシーンがあります。彩瀬さんは「原作者として、映画業界の性暴力・性加害の撲滅を求めます」という声明に賛同されていますが、「社会へのアクション」についてどう捉えていますか。

 大げさじゃないこと、もっとカジュアルなことになればいいなあと思っています。よく、政治と宗教の話はNGっていうじゃないですか。でもそれら二つがNGで、民主主義が守られるわけないよな、とも思うんです。特に生活にダイレクトに影響を及ぼす政治はすごく大事なイシュー(課題)なはず。自分と主義主張の違う人とも、お互いを尊重するラインを守りながら意見交換ができる状態が理想的だと思うのですが、そのやり方を教わってないんです。

 光が、「社会的なアクション」という言葉に「そんなことしていいんだろうか」という気持ちになってしまうのは、年長者で家長であるおじいちゃんの機嫌をほかの家族みんなで取るという景色をずっと見てきたから。光にとっては家でも職場でも、場の決定権があるのはいつもおじいちゃん、すなわち高齢の男性だったんです。自分も生きているこの場に関与していいんだ、変えようとしていいんだ、という感覚を培う機会が乏しかった。「社会的なアクション」って、今生きづらさを感じている人が、もっと生きやすくなるように社会に変化をうながすことじゃないですか。おじいちゃん優先じゃなくて。だから「大それたこと」だと感じてしまう。根深いですよね。

――私たちがもっとカジュアルに社会的アクションを起こせるようになるには、どうしたらいいでしょうか。

 私が映画界の性被害についてアクションを起こせたのは、小説家という職業でフリーランスだったというのもあると思います。会社に勤める人にとっては、もっとハードル高いことですよね。アクションを起こしにくい根っこのところには、「日本は均一である」っていう幻想があるんじゃないかな。日本人はこういう性質があって、みんな同じ思想を持っていて……と。

 実際は今も昔もそうじゃない。その幻を解体していくような言説や文化が育っていけば、隣の人から違う意見が出たときに、過剰な防衛や攻撃をせずに、違う立場の人だから違う意見があるんだ、そういうものだ、と受け止められると思うんです。岩盤のような「日本人は均一」イメージがだんだん崩れていくといいなと思います。そのスタート地点が夫婦間の対話かもしれませんね。

「私は、私の体の“王”だ」

――光と虎治は亀裂があっても夫婦であることを選び続けます。それはなぜでしょうか。

 「えっこの人、こんなこと考えてるの⁉」と思うのと同時に、でも昔とても良好に関係を築けていた、というのが浮かぶからじゃないでしょうか。相手の理解できない言動を、エラーと捉え、たぶんこれは本人が望んだことじゃない、なにかややこしい根っこがあるんだなと思える。だから続けていけたんじゃないかな。

 晩年、光も虎治も決して褒められたものじゃないエラーを抱えるんですが、これまで登場人物にうまくエラーを抱えさせられなかったんですね。脈絡のない、本人の力では治せないエラー。今回、二人を晩年まで描くなかで、初めてそういうものをうまく書けたように思います。

――最後に、この小説をどんなふうに受け取ってもらいたいですか。

 私はこの小説を書き終えて、「私は、私の体の“王”だ」ということを実感できたんです。子どもの頃、親族から「まるちゃん、ちょっと太った?」などと言われて、そういうのにいちいち心を揺らしていたけれど、「私の体のことは、私がオッケーならそれでいいんだ」と心から思えて。生きていればこの先もそういう場面があると思うんですが、今後一切心を揺らさなくていいと思っています。

 タイトルの「かんむり」は読者それぞれの受け止め方にお任せしますが、強いて私からなにか言うとしたら、「あなたはあなたの体の“王”に、ぜひなってください」と伝えたいです。

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