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ずっと「大人の食べもの」だと思っていた 彩瀬まるさんが大学生でおいしさに目覚めた「蕎麦」

 つい先日、原稿用紙に換算して二百枚ほどの中編のゲラに手こずっていると、校正さんから鉛筆でこんな指摘が入っているのを見つけた。

【作中で、登場人物が蕎麦を食べるのは四回目になりますが、よろしいですか?(念のため)】

 蕎麦?

 SOBA?

 めいっぱい頭にハテナがうかんだ。なにしろその数行前まで、章のラストの展開がありきたりだとか、このままでは背負わせたテーマがぼやけてしまうので登場人物を考え方から組み直すべきだとか、大切なシーンなのでこのような手垢のついた描写ではなくもっと新しい表現を模索しましょうだとか、思わず毛布を被って現実逃避したくなるような的確でヘビーな指摘のラッシュが続いていたのだ。

 蕎麦? え、私そんなに登場人物に蕎麦を食べさせてました? 脳内で校正さんに話しかけつつ、書き込みだらけのゲラをめくる。一回、二回、三回、四回……本当にたいした必然性もなく、複数の登場人物が生活のはしばしで蕎麦を食べていた。駅ナカの立ち食い蕎麦、ランチデートで蕎麦、スーパーの流水麺で蕎麦、飲み屋で蕎麦。あっけにとられたあと、笑ってしまった。そうか、私はまだ蕎麦を「大人の食べもの」だと思っていたのか。

 大学に入ったばかりの頃、休日の昼に父親がふらりと蕎麦屋に連れて行ってくれた。家から少し離れた、あまり行ったことのない界隈にある小綺麗な店だった。

 店に到着しても、私のテンションは低かった。せっかく休みの日のランチなのに、蕎麦か。せめてこってりめのイタリアンか、焼き肉か、もっと油分が多くて食べ応えのあるものが良かったな。十代の後半は、まだカロリーが多ければ多いほど満足感を得る年頃だった。

 私は脂っこさを求めて鴨南蛮を、父親は辛み大根のおろし蕎麦を注文していた覚えがある。

「ここの舞茸の天ぷらがうまいんだよ」

 父親にそう言われても、きのこの天ぷら、としか思わなかった。ハイハイいつもキッチンペーパーに貼り付いてへなへなになってるやつね。それならまだ海老天の方がいいな、と大して期待もせず、運ばれてきた舞茸の天ぷらを眺めた。一株を丸ごと揚げた、あまり見たことのない小山のような姿だった。

 一口食べて、本当に驚いた。

 衣がカリカリで、肉厚で、噛んだらじゅっときのこのうまみが口いっぱいに広がり、芳ばしい香りが鼻を抜けていく。え、舞茸ってこんなにおいしいもの?

 生まれて初めて、きのこをおいしいと思った。そして、天ぷらも。

 おいしい、と思わず叫ぶと、父親は「でしょー、ほーら言ったでしょー」と得意げに頬を緩ませた。小山のような天ぷらを夢中になって食べた。口の中を油まみれにして食べる辛み大根のおろし蕎麦もまた、体験したことのない未知のおいしさだった。

 思えば、私はそれまで休日の昼間に蕎麦屋になんて来たことがなかったのだ。蕎麦といえば乾麺を家で茹で、面白くもなんともない麺つゆとネギで食べなければいけないもので、天ぷらといえば母や祖母が揚げる、おいしいけれどもまあ普通の夕飯という程度の印象だった。外食をしたとしても回転寿司であったり、焼き肉であったり、ピザ屋であったり、どこかしら「子供の喜びやすさ、分かりやすさ」が考慮された店が多かったように思う。

 プロが揚げたカリカリの天ぷらも、産地にこだわった舞茸や辛み大根も、麺つゆに浸けずにそのまま食べたっておいしい蕎麦も、初めてだった……と書くと、親族から「いや覚えてないだけで、もっと前からちゃんといいものを食べさせていたから」と文句が出るかも知れない。しかし少なくともそれまでは、繊細な料理を食べていたとしても認識が追いついていなかったのだ。

 大人は、こんなに分かりにくくておいしいものを食べていたのか。そんな感動とともに蕎麦屋をあとにし、それ以来「大人は蕎麦を食べる」という漠然としたイメージが私の中に染みついた。くだんの中編でやたらと蕎麦を食べるシーンが多かったのは、メインの登場人物の一人が私よりも一回り年上の「大人」なイメージの人で、彼が食事をとるシーンのことごとくで、無意識のうちに蕎麦を食べさせていたからだ。

 これまで「大人」な登場人物を出すたびに、自分がどれだけ自覚もなく蕎麦を食べさせてきたのだろうと思うと、そら恐ろしいものがある。(絶対に数えないし、恥ずかしいのでこれからは意識して控えようと思う)。

 ちなみに少し前にデビュー作「花に眩む」を読み返したところ、そこにも主人公の女性が年上の大人っぽい男性と一緒に蕎麦を食べるシーンがあって、笑ってしまった。三つ子の魂百まで、である。