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「ワンダーランド急行」書評 ろくでもない日常が揺らぐ恐怖

評者: 藤田香織 / 朝⽇新聞掲載:2023年01月21日
ワンダーランド急行 著者:荻原浩 出版社:日経BP日本経済新聞出版 ジャンル:小説

ISBN: 9784296116058
発売⽇: 2022/12/20
サイズ: 20cm/441p

「ワンダーランド急行」 [著]荻原浩

 ふいに「ここではないどこか」へ行きたい、と思うことがある。
 いつもと同じ時間に駅のホームに立っていて、目的地とは反対方向の電車に飛び乗ってしまいたくなる、あの衝動。四十歳になったばかりの主人公・野崎修作は、ある日そうして、下りの急行電車に乗り込んでしまった。
 サボりじゃない。これはつかのまの日常からの脱出だ。終点の駅で降りると、改札の前に、どでんとふたこぶの山が迫っていた。あれこれ思い巡らせながら歩き出す。車も来ない。人もいない。マスクを取って歩きながら〈なぜ私の日常がろくでもないのか〉〈どこからろくでもないものになってしまったのか〉を考える。歌を口ずさんじゃったりして。ビールも飲んじゃったりして。ささやかな幸せを感じたりもして。ところが、つかの間の脱出だったはずが、野崎は「日常」に戻れなくなる。
 自宅のある駅に帰ると、似ているが何かが違う。妻の様子もどこかおかしい。翌日、家を出てみると誰もマスクをしていない。逆に電車内では「おい、マスクしてるぞ、あいつ」といったひそひそ声が聞こえてくる。何だ。どうした。ここは、自分は、どうなっているのか――?
 荻原浩といえば、デビュー作『オロロ畑でつかまえて』から連なるユーモア小説や、『神様からひと言』に代表されるお仕事系の印象が強いが、社会派ミステリーやホラー、タイムスリップを扱ったSFなど作品の幅は広い。本書には、長年読み継いできた読者が、これぞ真骨頂!とニンマリし、新しい読み手を作家の世界へ導き招き入れる多彩な魅力が詰まっている。
 妻や会社の同僚など、過ごしてきた日常と同じ人物が生きているのに、関係性が違う。知っているようで知らない異世界、という設定が絶妙だ。「ここ」は本当に「ここ」なのか。自分の存在が揺らぐ恐怖を、小説だと割り切れなくなる。
    ◇
おぎわら・ひろし 1956年生まれ。2005年、『明日の記憶』で山本周五郎賞。2016年、『海の見える理髪店』で直木賞。