ユニークな出版活動で知られる国書刊行会が、創業50周年を迎えた。
現在、全国書店では記念フェアが開催されており、店頭で配布される小冊子『私が選ぶ国書刊行会の3冊』や、普段なかなか目にすることのできないレアな書籍を求めて、多くのファンが足を運んでいる。
わが国の出版界において、国書刊行会は特殊なポジションを占める出版社だ。幻想文学や海外文学を中心に、歴史・仏教などの学術書、美術・映画などの芸術書等の分野で、個性的なラインナップを展開。活字好きに愛される信頼のブランドとして、大手とはひと味違う存在感を放ってきた。
そんな国書刊行会の位置づけをよく表しているのが、近年ネットで生まれた“国書税”という造語だろう。国書税とは、読者が国書刊行会の本に対して支払う代金のこと。またこんなマニアックな本が出るのか、嬉しいけど今月も書籍代がかさむじゃないか、まるで税金を取られているようだ……、という悩ましい国書ファンの心理が“税”の一文字には込められている。
日本の幻想文学の潮流を作る
国書刊行会は1971年、印刷会社を経営していた佐藤今朝夫氏(現・国書刊行会代表)が、学術資料の復刻出版を目的として設立した。少々いかめしい響きをもつ会社名は、明治時代に存在した出版団体から借用したものだという。
『玉葉』『明月記』の2冊を皮切りに、希少な学術書の復刻版を相次いで刊行。その後仏教書などの編集・出版にも着手し、事業を拡大していく。寺院向けに販売した実用書『法名戒名大字典』は類書がなかったこともあり草創期のベストセラーとなった。
転機は1975年にスタートしたシリーズ《世界幻想文学大系》だろう。当時気鋭の評論家・翻訳家だった紀田順一郎・荒俣宏氏が持ち込んだこの大型企画を引き受けたことで、国書刊行会の運命は決まったといえる。世界各国の幻想文学を収録し、広大なジャンル全体を俯瞰するという出版史上前例のない《世界幻想文学大系》は、杉浦康平・鈴木一誌氏が手がけた豪華絢爛な装丁も相まって注目を集め、1976年度の日本翻訳出版文化賞を受賞した。
時流に左右されない価値観と、マニアの潜在的需要を掘り起こす企画力、書棚に飾っておきたくなるようなブックデザイン。それらが重なり合うことで醸し出される、どこか浮世離れした佇まい。多くの読者がイメージする“国書刊行会らしさ”は、すでに《世界幻想文学大系》で確立されていた。
以降、《セリーヌの作品》《ゴシック叢書》《ドイツ・ロマン派全集》《真ク・リトル・リトル神話大系》など、幻想文学・海外文学の画期的なシリーズを刊行。1970年代から80年代にかけて陸続と現れたこれらの刊行物がどれだけ衝撃的なものであったか、後追い世代の私にも容易に想像できる。歴史にifはないというが、もし国書刊行会が《世界幻想文学大系》とそれに続く一連のシリーズを刊行していなければ、わが国の幻想文学シーンはここまで発展していなかったのではないか。
そこから先の歴史は長くなるので割愛するが、昭和から平成、令和にかけて国書刊行会は多くの話題作を世に送り出してきた。京極夏彦氏の妖怪ミステリの副読本としてヒットした画集『鳥山石燕 画図百鬼夜行』、伝説の幻想作家・山尾悠子氏の20年ぶりの新作として注目された『ラピスラズリ』、美智子皇后(当時)の愛読書として一躍有名になった《ウッドハウス・コレクション》――。国書刊行会がカバーする領域は、日々拡大を続けている。
このほど同社の図書目録をめくっていてあらためて気がついたのは、数十巻にもおよぶ大型企画が多いこと。先述の《世界幻想文学大系》は全45巻、その国内版ともいうべき《日本幻想文学集成》は全33巻、1989年に刊行がスタートした《文学の冒険》にいたっては60巻ものボリュームを誇っている。これには書店での売り場を確保したいという営業的事情もあったのだろうが、あるジャンルの全貌を丸ごと読者に伝えようとする精神は、いかにも国書刊行会に似つかわしい。
怪奇幻想ライターである私のインフラのような出版社
幻想文学やホラーを専門とするライターの私にとって、国書刊行会は文字通りなくてはならない、インフラのような出版社だ。この方面に開眼した1990年代後半以降、新刊をリアルタイムで追いかける一方、古書店を利用して過去の遺産にも触れ、国書刊行会という沼にどっぷり浸ってきた。
思い出を語るときりがない。特に印象に残っているのは1997年にスタートした全20巻の幻想文学のアンソロジー叢書《書物の王国》だろうか。〈架空の町〉〈怪獣〉〈鉱物〉などのテーマと、須永朝彦、東雅夫氏らによる目配りのきいたセレクションが魅力的だった。当時通っていた大学構内の書店で内容見本のチラシをたまたま発見し、「こんな本が出るのか」と痺れるような興奮を味わったことを昨日のように覚えている。
幻の作家にあらためて光を当てた『山尾悠子作品集成』には衝撃を受けたし、バイト代をやりくりして集めた《野坂昭如コレクション》は学生時代の宝物だった。怪奇小説の面白さをあらためて教えてくれた《魔法の本棚》、清水の舞台から飛び降りるように定価2万円を支払った『幻想文学大事典』、月報に寄稿することができて嬉しかった《定本 夢野久作全集》――。学生時代から物書き専業となった現在までの年月は、国書刊行会をめぐる記憶とそのまま重なっている。
未知の文学、埋もれていた学問と出会う
これは私に限ったことではないだろう。現在配布中の小冊子『私が選ぶ国書刊行会の3冊』を読むと、各界の著名人がそれぞれの国書刊行会体験を語っているし、読者それぞれにも国書刊行会にまつわるストーリーがあるはずだ。
国書刊行会とそれ以外の出版社を隔てているのは、ここではないかと思う。所有欲をそそる装丁と、物としてのインパクト(国書刊行会の本はたいてい大きくて重い)、これは自分のために出された本ではないかと錯覚するような企画があいまって、一冊の本との忘れがたい出会いを演出する。書店の棚で国書刊行会の新刊を見かけた際の「なんだこれは」「こんな本があっていいのか」という胸の高鳴りは、何ものにも替えがたいものなのだ。
国書刊行会のロゴマークは、知の大海を渡る船をイメージしているという。これまで意識してこなかったが、考えてみるとこれほど社風にぴったりのシンボルもないだろう。国書刊行会は私たちを日常からかけ離れた、驚異の海に連れていってくれる船である。未知の文学、埋もれていた学問、知られざる美術や映画。その船は空間も時空も飛び越えて、喜ばしき知のあるところへと私たち導いてくれる。そんな国書刊行会のあり方は特殊なようで、実は出版の王道なのかもしれない。
景気の先行きが不透明な時代、国書刊行会が今後どうなっていくかは分からない。しかし多方面にビジネスの枝葉を広げながら、激動の50年を乗り越えてきた同社のこと、これからも出版界の荒波をしたたかに渡っていくのではないだろうか。そして会社が存続する限りは、“国書刊行会らしい”としか言いようのない浮世離れした本を、これからも作り続けていくのだろう。
つまり私たちファンはこの先もずっと、国書税から逃れることはできない。なんとも悩ましく、同時にとても嬉しいことである。