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古家正亨さん「K-POP バックステージパス」インタビュー 韓流の伝道師として四半世紀、日韓は「絶対に理解しあえる」(前編)

古家正亨さん=斎藤大輔撮影

20年前は想像できなかった光景

――年末のテレビの音楽番組は、LE SSERAFIMやIVE、STRAY KIDSといったK-POP勢が席巻していました。Netflixなどでは韓国ドラマが相変わらずの人気で、最近は多くの有名人や著名人がK-POP、韓国文学好きを公言しています。ご自身の20年の歩みを振り返る本が出たこの年末、そうした状況をどうご覧になりましたか?

 まったく20年前は想像できなかった風景があるなと思いましたし、それと同時に日本も変わったなと思いましたね。20年前、僕が韓国のエンターテイメントの魅力を広めようと活動を始めた時は、社会自体がここまで韓国を受け入れていなかった。上から目線と言うか、ある種、アジアの国々を見下しているところがあったじゃないですか。韓国のエンタテイメント自体の成長もその背景にあるとは思いますが、日本の中における韓国観も随分と変化したと感じます。

――古家さんが最初にK-POP(当時は「韓国歌謡」)に出会ったのが、1997年に北海道の大学を卒業して留学したカナダでした。韓国出身の友人から渡されたユ・ヒヨルのバラード に「涙腺を刺激されっぱなし」だったと。確かに独特のわき上がる、何か分からない感覚がありましたよね。

 聴いた時に「何なんだろう、これ」っていう、そのカルチャーショック。言葉がわからないし、メロディもオーソドックスなんだけど、曲の構成だったり歌い方だったり、トータルで「これ、日本にないな」と。じゃあ「何が違うのか」という疑問が湧いてきて、もうそこから、深堀りしたくなったという感じですね。

――その後、韓国留学を経て札幌でラジオDJをしていた1999年、番組で韓国の曲をかけたらリスナーから苦情が相次いだとありました。今聴いてもまったく違和感ない曲ですが、隔世の感がありますね。

 まったく普通の曲ですよ。僕が当時働いていた放送局がR&Bを中心にかける局だったから、音楽的に刺さるR&B系の曲だったら理解してもらえると思って。でもそれを「韓国の」と紹介しただけで、多くのリスナーが拒否感を示した。当時の韓国の音楽シーンはR&Bブームで、在米韓国人のアーティストたちが、本国にアメリカのトレンドをそのまま持ち込んでいたのでかなり先進的でしたから、そんなおしゃれな韓国の音楽をかけたらみんな「韓国、いい!」って言って、一気に広がるだろうと思い描いていたのが、まったくそうじゃなかった。ショックでしたね。

 でも、それはもしかすると、自分がカナダに行ってなかったら同じことを思ったかもしれません。サッカー・ワールドカップの共催は決まっていたけど、当時の日本は、韓国に対する理解も深くはなかったですし、興味も当然なかった。韓国音楽を好きな人は、当時から日本にも確かにいましたが、完全にサブカルチャーとしての人気だったので、マニアックな人だけが盛り上がっていたのが当時の状況でした。今のようなメインカルチャーになる勢いはありませんでしたから。

スポンサー探し・自腹で渡航

――そんな状況で、自ら番組のスポンサーを探し、自腹で毎月、韓国に渡って音源を探していたという熱意に驚かされます。「仕事も心も充実していましたが、残念ながら通帳には、ほとんど残高が残っていない状況でした」という回想が泣けてきました。

 スポンサーになってくれる条件として、ヒュンダイ(現ヒョンデ)の車を自腹で2台買ったほどです。あの頃は大変でした。

――もう無理だ、あきらめようと思わなかったんですか?

 それが不思議となかったんです。自分も最初、全く無関心だったのがこれだけ惹かれたわけですよ。だから、同じような体験を、僕がラジオを介して提供できたなら、僕と同じような幸せな体験をしてもらえる人が増えて、韓国やアジアに対する理解、日本人もアジア人だという意識を持てるきっかけになるんじゃないかって。それだけでしたね。

――今、言われて思い出したので告白しますけど、私も大学生だった1990年代前半、知人から韓国のヒップホップの先駆け「ソテジ・ワ・アイドゥル」のCDをもらって聴いた第一印象は「何これ、ダサい」でした。韓国人がラップ? と。やがてそんな先入観に凝り固まっていた自分が恥ずかしくなる訳ですけど、古家さんはそこに向き合い続けたわけですね。

 ただ僕がラッキーだったのは、日本とまったく関係のないカナダという第3国で、その文化に触れたからこそ客観的に見ることができたのだと思います。本当に何の違和感もなくスーッと入ってきたんですよね。日本の音楽と比較していたら、同じようなことを考えたと思うんですね。「何かダサい」と。

「冬ソナブーム」で上陸した「ファンミ」

――そして2002年の日韓ワールドカップを経て、2003年に韓国ドラマ「冬のソナタ」が大流行しました。これを機に日本で韓流ブームが起きて、来日した韓流タレントのファンミーティングの司会など、古家さんのお仕事も増えました。どんな心境でしたか?

 実際のところ、北海道以外で仕事ができるっていうことだけで嬉しかったんです。今だからこそ言えますけど、かなり安いギャラで働いていました。でもその時に本当にいろいろな経験をさせてもらって、すごく良かったと思っています。

 今でこそ「ファンミーティング」という言葉は当たり前にありますけど、当時はそれを理解して日本に定着させること自体が大変な時期だったんです。韓国のファンミーティングは当時、ファンが主催して無料で開くイベントが基本。ファンがお金を出し合って、スターはそこに私服で来て、まるで会食するかのように、ファンと一緒に楽しい時間を過ごす。これを日本で興行イベントとしてやったんです。すると、当然多くの問題が発生するわけで、現場レベルでは毎回、必死でした。

 どうやったら韓国サイドを説得できるのか、どうやったら1万円のチケット代を払ってくれた人に、その1万円分の体験をしてもらえるのか。単なるMCではなく、制作をやったり、台本も書いたり、いろんな形で関わったんですね。ラジオDJとして自分で番組制作もやり、台本も書いていたそれまでの経験が、全て活きました。

――お客さんに満足して帰ってもらうために、かなり必死だったんですね。

 でも、やっぱり僕自身、この仕事をしていてすごく幸せだなと思ったのが、外見も文化も習慣も、何から何まで似ている日本人と韓国人が、お互い全く違う価値観の中で、一つのものを作り上げる共同作業の難しさと、成し遂げたときの充実感、そこにすごく惹かれたんですよ。

 日韓ってすごく難しい関係性だってよく言うじゃないですか。みんなそれぞれ今起こっている問題について、いろんな解釈があって、理解できないことも当然ある。でも、みんなお互いをよく分かっていると思い込んでいる。エンタテイメントの世界も、まさに、そうなんですね。それを、お互いの違いを認めることで解決できることが分かったんです。だから僕は、エンタテイメントの分野で自分の仕事をやり続けることが、きっと将来の日韓の相互理解につながるという確信があってやってる感じですね。

――同感です。似ている部分が多いだけに、「なぜ違うのか」とお互いがイライラしていますよね。

 そうなんです、本当に。でも、留学したり、韓国に住んだり、働いた経験のある人や、日韓カップルは、そうじゃないことに気づいているはず。僕はたまたま素敵な音楽と出会ったので、音楽とエンタテイメントという分野でそれを解決していきたいですし、医学だったり、経済だったり、みんなそれぞれの分野で相互理解を深めていけば、絶対にお互いを理解できるだろうという確信はあります。

後編に続く)

>【後編】「韓流の伝道師」古家正亨さん、K-POPにあこがれ韓国に渡る若い世代に「歴史を知って」と説く理由