本の中に何らかの食べ物が出てくると、それを食べたくなる人は多いと思う。わたしもそうだ。今机の上のいちばん近い場所に置いてあったリーマンショックについての本をぱらぱらとめくると、当時のアメリカの財務長官が、朝食に〈冷めたオートミールをまえに、缶入りのダイエットコークを飲みながら〉深刻なことを話し合っていたのだが、いいな、オートミールにダイエットコークな、とちょっと思っている。わたしはダイエットコークはまったく好きではないのだけれども。
飯テロという言葉が一般化して久しいけれども、本来の飯テロが画像の発信に由来するのに対して、わたしは文字だけの方が「食べたい」という気分になりやすいようだ。理由はわからないのだが、一度頭の中でその食べ物を想像することによって食べたくなるのだと思う。
まぬけなことに、自分で書いていても食べたくなる。わたしは魚介類が苦手だけれども、ずーっと「さんまの塩焼き」について書いている場面があったとすると、おそらく食べてみたくなるはずだ。ただ「この場面にはさんまの塩焼きが適切だ」と思ったことが一度もないので、食べてはいない。これ、嫌いな物を克服するのに良いシステムじゃないか? とも思うのだけれども、そもそも「さんまの塩焼き」を小説に出さないので難しい。見るのも嫌な「鯛(たい)の子」などは一生無理だろう。
おそらく「嫌い~普通~好き」という食べ物に対するモチベーションの濃度のうち、話に書いてもいいと思える普通以上なら、三十分そのことについて書いていたら食べたくなると思う。冷蔵庫の中のブロッコリーを片付けたいけど、気が進まない日があるとすると、ブロッコリーを茹(ゆ)でて冷やしてマヨネーズを付けて食べる場面を書く。するとブロッコリーが食べたくなるはずだ。
すでにまんまとブロッコリーが食べたくなってきた。「思い浮かべること」が、最も「食べたい動機」に化けやすいのかもしれない。=朝日新聞2023年4月12日掲載