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横関大さんが「週プロ」なしでは生きていけなかったころ

「週刊プロレス」(2023年3月29日号、ベースボール・マガジン社)

 私は高校2年生のとき、村上龍さんの『愛と幻想のファシズム』を読み、小説家になろうと決意した。なるほど、今回は小説家を志したきっかけの話ね。そう思った方もいるかもしれないが、その話ではない。10代の頃、私が愛してやまなかった娯楽は小説でも漫画でも音楽でも映画でもアニメでもゲームでもなく、プロレスだ。今日は『週刊プロレス』について語ることにしたい。かなりマニアックな内容になるが、ご容赦いただきたい。

 平成元年(1989年)のことだった。私はたまたま家のテレビで新日本プロレスの『ワールドプロレスリング』を観ていた。そこで髪の長いおじさん(長州力)とヒゲがモジャモジャしたおじさん(マサ斎藤)が、マスクマン(スーパー・ストロング・マシン)と長身イケメン(ジョージ高野)を痛めつけていた。長身イケメンは大流血しており、絶対負けると思っていたのだが、逆転勝ちしてベルトを奪取した。私はいたく感激して、その日からプロレス中継を欠かさず観るようになった。さらに日曜深夜に全日本プロレスも中継していることを知り、そちらも録画するようになる。全日本プロレスではやけに不機嫌そうなおじさん(天龍源一郎)と長身とっちゃん坊や(ジャンボ鶴田)が抗争を繰り広げていた。私は天龍源一郎のファンになった。

 それからしばらくして、私は毎週木曜日に『週刊プロレス』なる雑誌が発売されていることを知る。思えばこれが禁断の果実だった。私は恐る恐る『週刊プロレス』(以下、週プロと略す)を購入した。以来、10年近く、毎週木曜日に週プロを欠かさず購入することになろうとは、このときは想像もしていなかった。

 10代の私が娯楽にかける時間の総数を10だとすれば、プロレスが7、小説と漫画と映画が1ずつだった。いや、実際には世界史の授業中に「ラッシャー木村は国際プロレス時代にデスマッチの鬼と呼ばれていたのか」とか、体育の授業中に「UWFに入った新弟子の田村潔司はいつ頃デビューできるのか」などと思考を巡らせていたので、実際にはもっと多くの時間をプロレスに費やしていたと思う。

 当時の週プロはターザン山本編集長のもと、黄金時代を迎えていた。活字プロレスと呼ばれるものであり、記者が自分の意見を記事で述べたり、または試合を詩的な言葉で飾ってみせたりと、自由性の高い記事に読者たちは想像力を刺激された。かくいう私もその一人で、将来はベースボールマガジン社(週プロの発行元)に就職しようかと本気で考えていた時期もある。

 今と違い、当時はプロレスこそ最強であるとファンは信じていた。その先頭を走っていたのが燃える闘魂、アントニオ猪木であり、それを証明するための異種格闘技戦路線だった。ところが海の向こう、アメリカでおこなわれた第1回UFC大会(なんでもありの大会)において、無名の柔術家、ホイス・グレイシーが優勝する。それを機にプロレスは徐々に浸食されていく。いわゆる総合格闘技という名の黒船によって。

 2000年を迎えた頃、私は週プロを買うのをやめた。大きな決意でプロレス断ちをしたわけではなく、単に買い忘れただけだった。あれ? 週プロなしでも生きていけるじゃん、俺。そんな風に思い、私と週プロとの蜜月は終わりを迎えたわけである。

 去年、アントニオ猪木氏がお亡くなりになり、今年の2月、武藤敬司が引退した。一つの時代の終焉を目の当たりにし、感慨深いものがある。私にとってプロレスは青春そのものであり、週刊プロレスは青春を映し出してくれる映写機だった。木曜日を心待ちにしていたあの頃。あのときめきを私はきっと忘れない。