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【谷原店長のオススメ】 植本一子・滝口悠生「ひとりになること 花をおくるよ」 書くことに心を研ぎ澄まし、家族との日々の暮らし見つめる

谷原章介さん=松嶋愛撮影

 本を紹介する連載ではちょっと珍しいことかも知れませんが、今回の「谷原書店」では自費出版の本を紹介してみようと思います。2022年5月の「文学フリマ東京」で初売りされ、たいへんな注目を集めた植本一子さんと滝口悠生さんによる往復書簡『ひとりになること 花をおくるよ』です。現在、紙の本は品切れで、PDF版が購入・ダウンロードできます。
(石田商店 https://ecdstore.thebase.in/

 この本の存在を知ったのは、朝日新聞朝刊の1面連載「折々のことば」です。2023年4月19日から3日間連続で、この本から言葉をすくい上げており、目を引きました。

「自然とバイアスがかかってしまう、そういう世の中であることが本当に心底嫌で点……」(植本さん)

「男女の役割をひっくり返しただけではそこから抜け出たことにはならない」(滝口さん)

「自分の書く言葉は、届けと思って届くより、自分から遠く離れたところで、偶然のように届いてほしいという気持ちがある」(滝口さん)

 植本さんは、1984年に広島県で生まれた写真家・エッセイストで、2003年に「キヤノン写真新世紀」で荒木経惟氏から優秀賞を受け、活躍されている方です。滝口さんは1982年に東京都で生まれた小説家で、2016年に『死んでいない者』で芥川賞を受賞されています。

 往復書簡という形式をとるこの本では、おふたりがお互いの「一主観」で、家族のこと、「書く」ということ、そして「生きる」ということについて掘り下げ、呼応しながら書き綴っています。なかなか言葉に言い表せない、ひととの関係性の構築の難しさなどを、しみじみと咀嚼しながら丹念に深められていきます。日記でもエッセイでも小説でもない、書簡だからこそ成立した独特の「一冊」です。

 小説家・滝口さんには幼い子どもがいて、育っていく様子を一つひとつ細かく描写しています。それを読みながら「ああ、こんな頃、たしかにあった!」と僕自身、膝を打ちました。わが家には上は19歳から、下は小学2年生までの子どもがおりますので、滝口さんが書き記す記録には、僕がこれまで見てきた景色と重なり、懐かしい気持ちになります。もっとも、僕はスマホで写メや動画を撮っていただけで、滝口さんのように文字で書き残していません。懐かしいなと感じるだけでなく、「自分は書き残さなかった」という後悔の念が入り混じった、不思議な感覚を覚えます。

 ああもういろんなことを記録しそこねてしまったな、もったいなかったな、と思う瞬間がたびたびあります。自分たち親が覚えておかなければ誰も覚えていられない子どもの人生の瞬間が確かにあって、でももうたくさんの瞬間が記録しきれず、思い出す契機を失ってだんだん忘れられてしまったのだと思うと、取り返しのつかない、惜しい気持ちになります。(滝口さん)

 いっぽう、植本さんのお子さんはもう少し大きくて、思春期にさしかかろうとしており、自分の場所を確立し始めています。だんだん親離れしていく寂しさを、ひしひし感じます。

 彼女が決めたことの責任を、彼女自身が背負うことになると思うと、傷つく姿を見たくない、と別の道を勧めたくなる気持ちもわかります。ついつい先回りして、彼女が傷つく権利さえも奪ってしまいそうになります。これから先は離れていく一方で、もはや赤ちゃんの時代をとっくに過ぎた彼女を、昔のようにつきっきりで守ってやることはできません。ただ見守ることと、安心して帰ってこられる場所を作ることしか、私にはできないのだと思います。(植本さん)

 自分に「付随していた」はずの子どもが、だんだん遠くに行ってしまう。幼い頃には、何も言わなくても「お父さん、お父さん」って寄って来てくれて、週末にはどこかに連れて行くのが当たり前だったのが、しだいに自分で自分たちの世界をつくり、行動するようになっていく。過去には手を焼いていたようなことも、今は「ああ、させてもらえていたんだな」って思い直します。「自分の人生の中でとても大事な瞬間だったのだ」。通り過ぎてしまった今、それを実感します。子どもと過ごすことで、自分はひとりじゃないと思えた日々に対し、ありがたい気持ちがしぜんと湧いてくるのです。

 また、「書く」ということについて、おふたりは思考を研ぎ澄ませます。滝口さんは「なぜ書くのか」「どう書くのか」ということを考える時間が、書くことのほとんどを占めているそうです。植本さんは周囲の風景が動いている瞬間に書くことを思いつきやすい、と記しています。

 僕は、「書く」ということは「書かないことを決める」ことと同義であると思います。「書くこと」「書かないこと」「書けないこと」「書きそびれたこと」――。曖昧模糊とした、何とも言葉に言い表せない感情を言語化した瞬間、思いからずれ ていく感覚。「いや、そういうことが言いたいのではないのに」。今の僕の気持ちを明確に表す言葉を探し、文章に置き換え描写すればするほど、言語の限界を感じてしまう。模索を続ける、おふたりのそんなやり取りに共感を覚えます。同じ赤い色でも、僕に見えている赤色と、あなたに見えている赤色は異なるかも知れない。でもそれは、同じに見えていないからこそ、多様で面白いとも思うんですよね。

 言葉といえば、「かなしみ」「さびしさ」という言葉について掘り下げるくだりがあります。言葉って、どこか水面に波紋をつくる石のような役目があると思っています。読み進めながら僕の中で浮かんできた疑問は、「さびしさ」という言葉ひとつ取っても、わびさびの「寂しさ」と、さんずいの「淋しさ」の違いとは何だろう、ということ。僕のイメージでは、静寂の「寂しさ」は、しんしんと静かな情景。さんずいの「淋しさ」は、身がよじれるような、もっと動的な気持ち。ただの言葉遊びでしかないかもしれませんが、表現することの面白さ、難しさに気づかされる瞬間でした。

 親との距離感についての言葉のラリーもあります。「家」って、とても小さな単位の異国。不可侵で入れません。その中で培われるものは、他の家からは理解できない独特なものもあるでしょう。「良い、悪い」の線引きや「してはいけないこと」など、ときには不条理なものも内包した世界だと思います。植本さんと滝口さんは、親との距離感が似ているようで、まるで異なっています。ここはおもしろい対比で、読みどころだと思います。

 家族や、周囲のひととの距離感、子育て、ジェンダー、そして、この先の人生について――。じつに多岐にわたるトピックにおいて、熟考された言葉が束ねられています。僕などは自由人みたいなものなので、「立場」みたいなことにあまり固執せずにいたいとは思ってはいるのですが、とはいえ、なかなか難しい世の中でもあります。「ままならない」。そんなふうに悩む日、この本を読み返そうと思います。

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 ライター小沼理さんの日記『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』(タバブックス)は、新型コロナや東京五輪・パラリンピック、元首相の銃撃事件と、激しい社会変化のあった3度の夏に、どんなことを感じ、悩み、生きてきたのかを率直な文章で綴っています。やはり「文学フリマ」で人気を博し、活躍の幅を広げる小沼さんに注目しています。

(構成・加賀直樹)