1. HOME
  2. コラム
  3. 文芸時評
  4. “場”のもつ力 現代を満たす、時間の蓄積 古川日出男〈朝日新聞文芸時評23年7月〉

“場”のもつ力 現代を満たす、時間の蓄積 古川日出男〈朝日新聞文芸時評23年7月〉

絵・黒田潔

 これこれの原因があったからこれこれの結果があった、というふうに現実世界は動いてばかりいるのではない。先に自分の話を書けば、少し前に築年数が数十年の木造家屋へ越した。ここには簡易的なリフォームが初めから施されていて、居間の柱は新たに暗めの色彩に塗られていた。転居後そこに「愛犬ナニナニ、何月何日ニ死ス」と彫られているのを見つけた。そのナニナニという名前は、この発見の一、二カ月後に刊行される自分の小説中に登場する犬の名前と同じで、かつ表記も揃(そろ)っていた。ありふれた犬名ではない。こうした一致はただの偶然だと説明できる。だが自分の体感は、「俺は正しい場所へ越してきた」だった。

    ◇

 町屋良平「生きる演技」(「文芸」秋号)はこうした体感を出発点にしているに等しい。この作品はテレビや映画、舞台などに出演する高一の男子二人を主人公にし、いわば演劇(演技)小説や芸能小説とも学園小説とも言えるのだけれども、実際にはそのどれでもない。現代小説だ。「演技をするのに必要なのは“場”との共振である」的な考察を起点に、ある人間が周囲から浮くのは“場”を無視するためなのだし、つまり「空気を読む」ことは演技をすることに通じていて、われわれ「現代」の日本人で演技をしない者はいないとの前提を出す。が、これだけではモラリスティックな、要するに説教臭い小説だ。そうなっていない。というのもどのような“場”であれ、そこには蓄積する過去があり、すなわち「歴史が溜(た)まっている」のであって、真に演技をする者は幽霊とも交信できるし土地の悲劇や惨劇を「現代」に幻出させることもできる。こうした領域にまで「生きる演技」という作品は突き進む。だから八十年前の戦時下と今の日本が接続してしまう。驚いてしまうのは本作に予定調和と感じられる要素が皆無なことで、「この後はきっと、こう展開するんだろうな」という読み手の甘えは拒まれる。ゆえに読みづらいが、最高に読み応えがあり、かつ唯一無二の印象がある。時代のフロンティアに刺さっている。

 田中慎弥『流れる島と海の怪物』(集英社)もまた予定調和に抗(あらが)う。作品に沿うように言い直すならば「小説は小説らしく『型』に嵌(は)まれ」との圧力にこれは抵抗しつづける。本作での“場”の力の源泉は、山口県の下関とその海で、基本的には八百年前の歴史――源平合戦――をエネルギーの淵源(えんげん)としつつ第二次世界大戦の原爆投下も直接的なドラマの駆動力とする。が、後者がどれほど大きな意味を持つかを明かしそうで明かさない。主人公は作家で、その語り口(文章、文体)は饒舌(じょうぜつ)を極め、にもかかわらずドラマ的な核心部からは迂回(うかい)しつづける。自分が実際にどう生まれたかを語れない、ある“生”やある“死”の真相に触れられない、この種の言いづらさにこそ“真実”があるのだと、ここに力点を置いている。安直な神話(とはファンタジーの別名だ)に逃げ切らないところにこの作者の覚悟を見る。

    ◇

 現代日本社会のその「現在」性を中学生の語り手を通して見据えるのは、金原ひとみ『腹を空(す)かせた勇者ども』(河出書房新社)で、作中、初めは中二の主人公が終盤では高一になる。本書内ではその文体がアスリートのように運動をしている。中学時代、実際に主人公はバスケ部員なのだが、まさにバスケ的に「目の前の試合」に集中し、このことが言葉を飛び跳ねさせる。周囲の状況をゲーム中の選手のように観察させる。子供であるというか「子供として『現在』を生きる」とは何かが完璧にビビッドに再現されている。

 いっぽう、逆に幼い子供を持った若い親の世代から「現代」を見ることに集中したのが長嶋有「トゥデイズ」(「群像」八月号)だった。三十五の妻と四十の夫と五歳の息子の暮らしが、父母の二視点から描かれる。その「現在」性は徹底していて、話は二〇二三年の四月に始まり七月(とは今月だ)に終わる。冒頭部こそ不穏なのだけれども、だがドラマそのものは決して不穏ではない。むしろ温かいし優しいし、人と人とがつながりづらい時代にそれでもつながることを志向している。それが空疎な希望などに感じられないのは、場所が一九七〇年代に造られた大規模なマンション群と設定されているためだ。ここでも“場”には数十年の時間がそなわる。だからこの「現代」が歴史の軸の上でポツンと孤立していたりはしないのだ。=朝日新聞2023年7月28日掲載