物語を動かすためのシンプルな仕掛けを用意し、それを活(い)かしてミステリとしての驚きを読者に提供し、同時に人の心の奥底を浮き彫りにする。近年活躍が顕著な潮谷験のデビュー作である本書は、そんな小説だ。
著名な心理コンサルタントである安楽(あらき)是清が、後輩の大学生を中心に、六人のアルバイトを集めた。その初日、彼らは安楽の案内で、家族経営のパン屋を訪れ、見学や試食を行う。その後店を退去した彼らに、安楽はアルバイトの詳細を説明し始めた。六人には、一度だけ押せるスイッチを表示するスマホアプリを配布すること、それを放置しても一万円の日当は一カ月間支払われ、その後、面談を経て百万円を進呈すること。高額かつ、怪しいほどに楽な条件を説明したうえで、安楽は付け加える。スイッチを押すと、先ほど訪れたパン屋への資金援助が止まり、彼らは破滅する、と。
スイッチを押そうと押すまいと六人には何のメリットもデメリットもないという条件下で、それでもあのパン屋を破滅させようとする者が現れるか、つまり、理由のない悪が存在するのかを、安楽は実験したいのだという。読者は、六人がパン屋一家との交流を深めるなどしながら、スイッチを押すという陥穽(かんせい)を回避していく日々を読み進むことになるのだが、ある時点を境に、この構図が一変する。殺人事件が発生し、過去が牙をむき、仲間への疑心が芽生えるのだ。こうした意外性たっぷりの展開はミステリとして一級品であり、“犯人”の特定に至るロジックも美しい。もちろん動機の考察も十分に行われるのだが、それが安楽の実験と鮮やかに絡み合っていて、善と悪、心の強さと弱さ、あるいは信仰についてじっくりと考えさせられることになる。読みやすさと奥深さが両立しているのだ。
主人公は、アルバイトの一人である大学生の箱川小雪。本書は彼女が自分自身と向き合う小説としても優れており、全体としての満足度は極めて高い。=朝日新聞2023年9月9日掲載
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講談社文庫・968円=単行本を含め6万1千部、文庫は昨年9月刊。メフィスト賞受賞作。夏に向けて店頭で仕掛けた拡販が効果を発揮。「20~40代女性が主な読者層」と担当者。