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引っ越し騒動 千早茜

 夏の終わりに引っ越しをした。変化のない日常を愛する身としては、引っ越しはなかなかの苦行である。今回は新刊『マリエ』の発売と時期がかぶってしまったので、梱包(こんぽう)パックをお願いした。引っ越し業者からは「なにもしなくてもいいですよ、指示だけしてくださったら。前日までいつも通りの生活を送ってください」と言われた。いつも通りの生活!それこそもっとも大事にしているものだ。喜んで従い、当日を迎えて発覚したのは、営業が見積もりを間違えていたことだった。梱包にきた人が悲痛な顔で「間に合いません!」と訴え、結局、私は朝から夕方まで汗みどろになって梱包をした。必死で詰めたので指示もだせず、どこになにが入っているかわからない八十以上もの段ボール箱の山ができた。

 新生活はもの探しからはじまった。茶を淹(い)れたいと思っても、電気ポットかやかん、茶葉、茶器と三つのジャンルの段ボール箱山から探さなくてはいけない。それより、まずは生活だった。フリーランスの私は引っ越し日であろうと仕事は通常通りなので、一刻も早くネット環境を整える必要がある。入浴用品や衣類や化粧品を探しださなくては取材にもいけない。新居の掃除もしなくては。カーテンが合わなかったり、照明が足りなかったりして買いにいく。不慣れな土地ゆえに迷ってしまい、半泣きになる。埃(ほこり)っぽく、段ボール箱の匂いのする新居はよく眠れない。睡眠不足の朦朧(もうろう)とした頭で、この引っ越しは災害だと思った。「いつも通りの生活」が蜃気楼(しんきろう)のようなものに思えた。

 引っ越してから三日間、夫となった恋人のマグカップを使って水分を摂(と)っていた。四日目、私は仕事も片付けもなげうって、段ボール山から茶器を発掘し、黙々と茶棚におさめた。とっぷりと暗くなるまでかかったが、茶棚のある一角だけ、完璧に「いつも通りの生活」が戻った。腹の底から安堵(あんど)して、その晩はよく眠れた。やっぱり自分の居場所を決めるのは茶からなのだと思う。=朝日新聞2023年9月13日掲載