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Skaaiの考え方を垣間見られる3冊「答えを提示するために音楽を作ってるわけじゃない」

Skaaiさん=雨宮透貴撮影

活字を読むには時間がかかる。でもそれは必要な時間。

――Skaaiさんは今でも本を読むんですか?

 僕は新譜チェックよりもアニメや映画を観たり、小説やマンガを読んだりする時間のほうが長いですね。最近だったら『左利きのエレン』とか『マチネとソワレ』とか。昔はファンタジーとか異世界転生の作品も読んでたんです。でも自分と近い業界がモチーフになった作品だと、登場人物の悩みや葛藤とリンクしやすくて、自然とそういう作品に惹かれるようになってきてます。

――では今日持ってきていただいた本を紹介してください。

 最初は『ハリー・ポッター』。僕らの世代だと小学校に必ず置いてあった本です。僕が本を読み始めたきっかけの本。『ハリー・ポッター』自体は映画で知ってたんです。そしたら小学校の図書室にあって。巻がすごくいっぱいあるじゃないですか? 「なんだこれ?」と思って1回読んでみたらハマっちゃいました。すごい没入して、朝まで読んじゃうみたいな。

――Skaaiさんの時代だとゲーム、マンガ、アニメと他にも魅力的なエンタメコンテンツがあるじゃないですか。読書は苦にならなかった?

 自分は両親からゲームを禁じられていて。テレビもダメだったし、マンガも買ってもらえなかったんです。だからこっそりテレビを観るか、本を読むかしか娯楽がなかったんです。

――その環境だと『ハリー・ポッター』は完璧ですね。

 完璧でした(笑)。本当に。

――かなり教育熱心なご家庭で育ったんですよね。「子供の頃は良い子だった」とよくインタビューで発言されてますし。

 正確には「良い子を演じてた」ですね。やっぱりいろんなこと知りたいじゃないですか。だから親がいない時に親のパソコンでネットサーフィンしたりもしてました。でも『ハリー・ポッター』は親の前で堂々と読めた。僕も楽しかった。つまり僕の興味の需要と、親が求める教育の需要を両方とも供給してくれる唯一の娯楽だったんです。

――『ハリー・ポッター』シリーズをそんなふうにとらえたことなかったです。

『ハリー・ポッター』ってファンタジーではあるけど、自分の生活の延長線上にあるような世界観だったと思うんですよね。自分も駅の柱を抜けてあの世界に入国できるかもしれないというか。僕は自分もあの世界に参加してる感覚で読んでました。7巻まであるのでストーリーはどんどん複雑になっていくけど、悪と正義らしき存在の対立構造が揺るがないので子供でもすごく読みやすかった。

――Skaai少年は『ハリー・ポッター』を小学校の図書室で借りて。

 うん。だいたい1冊3日とかで読んじゃってました。最近全巻買い直したんです。自分に子供ができた時に読んでほしいなと思って。『ハリー・ポッター』を読んで本を好きになってほしい。改めて読み返すと思ったより字がデカかったり、ボールドの箇所があったり、読みやすいページ構成になってて。読み返してそこに気づけたのも大きかった。ハグリッドとの会話とかもおもしろいし。

――ハグリッドとは? ……実は僕、『ハリー・ポッター』って観たことも読んだこともないんですよ。でも有名だからぼんやりとは知ってる感じ。

 そうなんだ! 『ハリー・ポッター』ってクリシェ的なストーリーではあると思うんですよ。メガネかけた弱い男の子がなんかわかんないけど英雄として扱われていて、その子しか黒幕のボスを倒せないみたいな流れがあって、みたいな。なんかわからんけどみんなにはない能力を持ってて、なんかわからんけど優秀な友達もできる(笑)。そういうストーリーって子供が一番引き込まれると思うんですよ。友達と一緒に魔法の言葉「アバダ ケダブラ」言ってみたいし。子供がハマる要素満載なんです。

――子供のために本を買うって素敵です。

 活字を読む経験をしてほしいんですよ。今は活字よりも動画コンテンツとかを観ることが多いじゃないですか。動画コンテンツはたくさんのインタスタントな情報をスピーディに摂取できる。それに慣れ過ぎてしまうと、空想の世界に想いを馳せる時間が減ってしまうと思うんですよ。

 一方、活字を読むのには時間がかかりますよね。例えば自分が今生きている社会がこれからどうなっていくかを考えるのには時間がかかる。その時間は必要な時間だと思うんです。活字を読む行為はそこから情報を得るために時間がかかるから、いずれ物事を深く考えなきゃいけない時に向けた訓練になると思うんですよね。これは次に紹介する本にも通じることなんですが。

「上からの全体主義」と「下からの全体主義」

――ジョージ・オーウェルの『1984年』ですね。

 この本と平野啓一郎さんはドイツに留学してるタイミングで読みました。

――ドイツでは何を勉強していたんですか?

 情報法という分野ですね。日本にそういう固有の法律があるわけではないんですが、ITにおける法律、例えば個人情報保護法とか、日本よりもヨーロッパでの方が研究が進んでいて、日本と比較しながら研究できると面白いかなと思って。なので1年間、ドイツで情報法全般の勉強をしていました。あとは個人的に興味があったSNSにおける民主性についても並行して勉強していました。

――それはめっちゃおもしろいですね。

 民主性というよりも公共性かな。公園みたいな公共空間では表現の自由が担保されてるじゃないですか。例えば国会議事堂の前でデモができるのは憲法で表現の自由が保障されているから。当時の僕はTwitterというプラットフォームでは表現の自由が担保されるのか、公共性は備わっているのかということに興味があったんです。トランプ元アメリカ大統領は政治的なプロパガンダから過激な発言までTwitterをめちゃくちゃ利用して、結果Twitter社からBANされましたよね? それが一部で議論になったんです。Twitterが公共空間ならトランプの発言は表現の自由として担保され得るべきではないかと。

 また、トランプが自分に批判的なコメントをしたTwitterアカウントをブロックしたことに対する違憲性について、アメリカ最高裁で議論されるとか、こういうニュースは画期的に感じました。それまでインターネットはグレーな場所で、だからどんな立場の人間でも何を言ってもいいし、誰を傷つけても問題ないと考えられていた。でもそんな場所が公共空間となる可能性を秘めている。これはすごいことだなと思ったんです。

――その感覚をベースにジョージ・オーウェルの『1984年』を読んだと。

 そう。この本はスターリン体制のソ連みたいな国をモチーフした全体主義のディストピアSFだと思っています。ビッグブラザーという存在するかもわからない絶対的独裁者が常に国民の行動を監視してる。思考警察って奴らがいて考えることすら統制されてる。日記も書いちゃいけない。国民は自由がなさすぎて、逆に不自由であることにも気づかないっていう。この本を読みながら、「これは上からの全体主義だ」と思ったんですよ。

――「上からの全体主義」とは、強烈なカリスマを持った誰かがなんらかの目的を持って世界を規定/統制していく。幻想かもしれないけど、そこにはなんらかの思想や秩序みたいなものが存在してる状態みたいなニュアンスですかね?

 そうですね。対してSNSは「下からの全体主義」なんじゃないかって感じたんです。末端のユーザー同士が互いに監視しあって、なんかよくわらない正義らしき概念が生まれて、なんかそれを正しいと思っちゃってる、みたいな。これはさっきの「活字を読むのには時間がかかる」って話につながるんですけど、一つの情報に対して思いをはせる時間が減ってしまうと、下からの全体主義が加速してしまうと思うんですよ。

 SNSというかTwitter、今はXですけど、文字数が制限されているじゃないですか。つまり情報が少ない。限定的な一面しか見せない。しかも拡散できる。情報の中身が定かでないことでもバズってしまうと、それが正しいように思えてしまう。本来はこちらが中身を判断するすべを持ってなきゃいけないけど、今の世の中はスピードが重視されてるから、考えることも、精査することすらままならない。この本を読んだときに、それをものすごく強く感じたし、今もその感覚は強くあります。

――現代社会に存在する「生きづらさ」「同調圧力」「監視されてる感」が「下からの全体主義」という言葉に集約されてますね。

 全体主義に関しては普通に興味があって、ハンナ・アーレント(※『全体主義の起源』著者)を読んだりしてたんですね。SNSも中学生の頃にはもうあって、僕も「孫正義がつぶやいた!」みたいな時代から使ってたんです。当時は自由で楽しいユートピアみたいな場所だったのに、いつのまにかディストピア化してしまって。最近だと軽犯罪の晒しとか。どんな犯罪も良くない。正義感も大切。SNSで晒せばなんらかの抑止力になるかもしれない。だけど……。

――それはあなたの役割じゃないよってことですよね。さらに言うと現実社会で犯罪を取り締まる警察は法で行動を規定されてるけど、SNSの自称“警察”にはそれがない。なんならその行動が承認欲求に基づいてたりするといろいろ話が変わってくる。

 そうそう。しかもSNSの正義は揺れ動くじゃないですか。だから怖い。さっきも言ったけど日本はネットにおける法律がゆるゆるなんですよね。その結果、SNSがみんなを生きづらくしてる。そんなことを感じていた頃に『1984年』を読んだので、自分の中でリンクしてしまったんですよ(笑)。まあ、SNSは自分から発信しなければ誰からも監視されないけど、たとえば僕のような仕事の場合、自分が意図しない形で思想が部分的に切り取られて拡散され、精査され、評価される可能性がある。それはちょっとつらいかなっていうのはありますね。

――Xに関してはポジティヴなバズにしろ、ネガティヴな炎上にしろ、よくよく調べると結局何が起こってるのかよくわからないことが多いですもんね。

 マジでそうっすね。言語って何かをカテゴライズする性質があると思うんですよ。SNSの世界においては、その強度が重要なんですよね。パワーワードっていうか。そういう意味ではハッシュタグの功罪ってあるなって思う。

――そんなことをドイツで勉強してたんですね。

 SNSの公共性は考えれば考えるほど難しくて、研究のテーマは別のことにしましたけど(笑)。大学で「社会あるところに法あり」という金言を習ったんです。その視点で社会を見ると面白いんですよね。たとえば中国のような国はITやテクノロジーを駆使したスマートシティーを目指してるんです。これって見方を変えるとオーウェル的な『1984年』の監視社会とも言えるんですよ。そんなことを考えている時にちょうど僕の同期が大学の敷地内で、デジタルの社会実装性を実験する会社を運営していることを知って。

――同期の方は学生で起業したんですか?

 そうです。社員は全員学生。僕は業務委託でその会社の法務を担当してました。九州大学って敷地が広いから、校内でAI運行のバスを走らせたりしてて。コロナ禍には「三密」を回避する行動変容を促すアプリを共同開発したりしてました。そういう事業に関わって思ったのは、全体主義とユートピア思想は表裏一体ってこと。全体主義には良い面もある。一方で今の僕らが生きてる社会は、オーウェルが1949年に書いた『1984年』のディストピアに通じる。

――本当にいろんな経験をされてるんですね。

 面白かったですよ。ただ当時も結構、謎の団体とか言われてました(笑)。人間って手触りがよくわからないものを忌避するじゃないですか。なんでも経験して功罪両面を見ないと、物事を判断したり考えたりできないと思う。

『「本当の俺」なんてものはない』と思わせてくれた分人主義

――では最後に平野啓一郎さんですね。

 僕は平野啓一郎さんがすごく好きです。言葉遣いも、分人主義という考え方も。平野さんの本と出会ったのは、ドイツに留学してた時でした。大学3年で単位を取り終わっていたので、ドイツ留学では結構自由に過ごしてたんです。さっき言ったようなこととか、興味ある授業だけ受けて、あとはネトフリ観たり、本読んだり。実は僕、そういう時間をそれまでの人生でほとんど過ごしたことがなかったんです。ずっと勉強してたし、ずっと特別な何かをしてた。僕、大学時代に塾を経営してたんですよ。

――ええっ!?

 めちゃめちゃ真面目に生徒と向き合ってました。学生で塾経営なんて、なんかすごいじゃないですか(笑)。当時の僕は自分がなんかすごいこと、特別らしいことをしてなきゃいけない人間だと思ってたんです。……なんというか、僕は母が日本人じゃなくて、小学生から海外にいっぱい留学してた。客観的にはそれってすごいことだけど、主観的には普通というか。別になんでもない普通の人間だったんです。

――自分の中でギャップがあった。

 うん。でもドイツ留学までは勉強やらなんやらでとにかく忙しかったから、あまりそのギャップと向き合ってこなかった、というか向き合う時間がなかった。ドイツで初めて「自分ってなんだろう」とか「自分の社会における役割」とか「自分は何をすべきか」って考えるようになったんです。

――「ただでさえ自分の勉強が忙しいのに、塾経営までするのはなぜだろう?」とか?

 そうそう。主観と客観のジレンマは実はずっとあって。高校まではある程度レールに沿って生きてきたけど、大学になると自由な時間ができますよね。そうなった時、何か特別なことをしてないと自我が保てなさそうだってことに気づいたんです。僕は常に周りから特別な存在だと思われて20年間生きてきたけど、僕が僕と真摯に向き合って、その結果、もし自分が何者でもないという結論に辿り着いたら……。僕は死ぬしかないかもって。それに薄々勘付いてはいたけど、怖かったから、何か特別らしいことをして先延ばしにしてた。

――そしたらドイツ留学でものすごく自由な時間ができてしまった。

 授業は週に2回くらいしかないから、それ以外は部屋で本読んで、映画観て、考えて。気分転換に散歩に出ると、なんかいつも曇ってるんです。そりゃ病むよねって話ですよ(笑)。基本一人だったから思い詰めすぎて、アイデンティティークライシスに陥ってました。よくエルベ川のほとりを散歩してたんですけど、本気で飛び込み自殺しようと思いましたし。そんな状態で、偶然Kindleで平野さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ』を読んだんです。

――先ほどおっしゃってた平野さんの「分人主義」とはどういう考え方ですか?

 ものすごく簡単に言うと、「核となる自分」や「本当の俺」なんてものはないという考え方だと思っています。母に対する自分の顔と、友人に対する自分の顔はそれぞれ違うかもしれないけど、全部どれかが本来の自分ではなく、全部が自分なんだってことですね。平野さんも最初からいきなり完成したものを提示したわけじゃなくて、徐々に確立されていった考え方ですね。

――Skaaiさんのジレンマを解消してくれる考え方だったんですね。

 はい。それまでの僕は自分に「社会の優れた構成員であれ」という役割を課していました。だから本当の自分がなんでもない普通の人であると気づいてしまうことが怖かった。だけど『私とは何か 「個人」から「分人」へ』を読んで、そんなふうに考えなくても良いんだなって思えたんです。考えても仕方ないって。僕は読書が好きだし、研究も好きだったから、そういう道に進もうかなって前向きに物事をとらえられるようになりました。

――『私とは何か 「個人」から「分人」へ』との出会いは偶然?

 最初に読んだ平野啓一郎さんの作品は『マチネの終わりに』でした。話題になってたからなんとなく読んだんだと思います。そしたら言葉遣いがすごく好みだったんです。『私とは何か 「個人」から「分人」へ』を読んだのはそのあとか、『ある男』を読んだあとくらいか。『ある男』は完全に分人主義がテーマなんですよ。

――でもSkaaiさんが今日持ってきてくれたのは『決壊』です。

 どの本にしようかめちゃくちゃ悩んだんです(笑)。『決壊』は日本に帰ってきてから読みました。『ある男』よりも前に書かれたミステリーで、まだ平野さんの中で分人主義が確立されてない時期なんじゃないかなと思ってるんです。

 僕はこの本がものすごく好きで、読んでてワクワクしました。しかものちに確立される分人主義の考え方がいろんなところに落とし込まれてる。そこも良くて。実は僕、これ最後まで読んだけどよくわからなかった。読み終わった後にものすごくいろいろ考えて、自分なりに納得はしてるけど。平野さんの作品はあまり決定的なことを言わない。でも生きてると、ふとリンクする瞬間がある。好きな作品はたくさんあるけど、「どれが好き?」と聞かれたら、僕はこの『決壊』が一番好きです。

――わかんないけど好きって良いですね。

 僕は明確な答えがあることが苦手なんです。エゴを感じちゃう。

――『ハリー・ポッター』という勧善懲悪の物語から始まって、忙しい10代を過ごし、20代でアイデンティティーと向き合った結果、答えが出ないものを好きになるっていうのは面白いですね。

 やっぱ自分も答えを提示するために音楽を作ってるわけじゃないんで。本当にただ点を打つ作業っていうか。「自分は今こう思っている」とか「世界に対してこう思っている」とかを表現する媒体に過ぎない。「この正義を世界に述べたい!」とかじゃないんですよね。そういうモチベーションが小説の楽しみ方にも表れてるのかもしれない。

――もしかしたらSkaaiさんは小島秀夫監督が作った「METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN」(MGV)というゲームが好きかもしれないです。1984年のアフガニスタンとアフリカが舞台で、言語が重要なファクターになってます。さらにテーマソングはデヴィッド・ボウイの「世界を売った男」なんです。

 面白そうですね! 僕も言語についてはよく考えるんですよ。小さい頃から多言語の環境で育ったから、日本語のこの文字に対応する英語がないとか。例えば日本語で定規って言われると竹とか木の定規を思い浮かべると思うけど、英語でrulerというとプラスチックに目盛りが入った安い定規を思い浮かべる。同じ言葉のはずなのに思い浮かべるものは違う。それって不思議だし、罪深い。

――いきなり「MGV」の本質を突いてきてビビります(笑)。

 マジですか(笑)。ちょっとチェックしてみます……。