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okadadaの音楽論に迫る5冊 「残された音源を使って、残らない一晩を彩るDJとは何か」(前編)

okadadaさん=寺沢美遊撮影

文字として残されたものには優位性もある。でも……

――DJ仲間のshakkeさんとのポッドキャスト「チャッターアイランド」でたまに読書の話をしているので、今回はokadadaさんがどんな本を読んで、どんなことを考えているのか聞いていきたいなと思っております。

 自分はDJなんで、言葉で何かを表現することが少ないんです。それにそもそもDJって何やってるかよくわかんない人も多いと思うんです。「(曲を)選ぶ人って……」みたいな(笑)。音楽の本を読むとそういう、やってることに対する考えがより多様に考えられる部分がありますよね。

――あまりクラブに行かない人が「他人の作った曲をかけてるだけ」と言ってるのはたまに聞きます。

 そうそう。で、僕が今日持ってきたのは『声の文化と文字の文化』という人類学の本。文字として残った文化と、口承で残る文化の違いについて研究してました。文学って英語だとリテラル(literal)って言うんです。対して、口承文学はオーラル・リテラチャー(oral literature)。

 文字として残った文化に優位性があることが前提になってる。そこに対して「本当にそうなの?」って問いかけるとこから始まっていく本なんです。実際、DJという行為は音源がないと無力ですよね。では製作者に対して従属しているのか、といえばそうではない。口承は文字の従属かといえばそうではないのと同じように、逆もそうではない。どちらにも優位は無いと思うんですよね。「形として残ってるものだけが偉いんか」「何も残さなかった人には意味がなかったんか」みたいな(笑)。逆に言えば形より経験が偉い、という訳でもないし。

――確かにDJプレイは一晩限りですもんね。

 割と(クラブに)行く人はわかると思うんですけど、当日の音源を後で聴いてもあんまりピンとこないことが多いじゃないですか。でも文字として残されたものには優位性もある。文字やレコードに残したりする一方で、現場で「やっぱりさ、経験じゃん」と言い合ったりする。そういうのを知るために僕は本を読んでいるんです。

「同じこと考えてるやつおった!」

――okadadaさんがDJを始めたきっかけは?

 中学の時、同級生がやりたいって言い出して、「おもしろそう。俺もやるわ」というのがきっかけですね。音楽を作り始めたのも大学4年生の時に友達がやり始めたからでした。「できるやん」って(笑)。DJに関しては、その頃すでに自分のルーティンになってました。

――okadadaさんはDJも発言もすごくかっこいいのに、肩の力が抜けてて飄々としてる印象がありました。

 恐縮です……。でも、そういう意味ではマグマのように湧き出る創作欲求で何かするみたいな人間では全然ないですね。物語を作るとか、曲を作るとかっていう創作をあんまり特別視しすぎると逆につまんないと思うんですよ。そもそも僕は難しいこと言うのが苦手なんですよ。シリアスそうな、真面目なものが真面目なんだ、っていうナイーブさに耐えられないです。

――ピンチョンやドゥルーズのような、とても難しい本を読むのはなぜですか?

 難しいこと言うのは苦手だけど、確かにそういう本も読んじゃうんですよね。読書って「そんなこと考えたこともなかった!」って驚きと、「それ俺も思ってた!」っていう両方があるじゃないですか。たとえば今日持ってきた『遠い呼び声の彼方へ』は後者のパターン。

――現代音楽家の武満徹さんのエッセイ集?

 ですです。武満徹さんは現代音楽の有名人じゃないですか。クラブでDJやってる自分から遠く離れた人だと思ったし、だから「どんなこと言ってるのかな」って軽い気持ちで買って読み始めたんです。そしたら僕が考えてたけど言語化できてなかったことがバシバシに書かれてて(笑)。

――たとえば?

 有名な「ノヴェンバー・ステップス」は、武満さんがピアノと琵琶で書いた曲を小澤征爾が面白いと思って、レナード・バーンスタインにテープを聴かせたら「ええやん」となって、武満さんに琵琶とオーケストラを混ぜた曲を書いてほしいという依頼で書かれた曲なんですね。

「西洋と東洋を合わせるんや」みたいな。でも実際にやってみたら全然合わなかったらしいんです。あれこれ苦心したけどダメだったから、あの「ノヴェンバー・ステップス」という曲は西洋音楽と東洋音楽は合わないことを証明するために作ったらしいんです。

――どういうことですか?

 日本の音楽にはさわりって概念があって。僕らも普通に「さわりだけ聴かせて」とか使ってるやつ。あれってもともとは演奏の一番盛り上がる箇所を指す言葉で。尺八は真竹の根本を切って穴を開けただけの楽器なので、さわりを出すには自分の口の形と竹の形が合うまで吹き続けるしかない。つまり個々人の口の形等で音どころか、音程も変わる。西洋的な意味での調性が取れないんですよね。

 一方、西洋の音楽といえばオーケストラで、楽譜とともに発展していきましたよね。美しいオーケストラには個々の楽器の倍音が邪魔なんです。だからそれぞれの楽器の音を痩せさせました。それは同時に(楽譜に)記述できるものしか残らなかったとも言えるんです。さわりって倍音と共振が肝なんですけど、武満さんは研究していくうちに、尺八や琵琶はなにより音色を大事にしてることに気づいたんです。でもそれって楽譜には残せないじゃないですか。西洋音楽っていうのは平均律の採用と楽譜の発明によって本来、音色や場所、つまり経験と不可分だった音楽を持ち運びや交換ができるものにしたことによって世界を制したと言えますよね。

――オーケストラが構築された美しさであるとしたら、琵琶や尺八はありのままの美しさを追求していた。

 そうそう。武満徹さんは戦中派で。当時は西洋音楽なんて敵性文化だから日本では聴くことができなかったんですよ。でもSP盤(※蓄音機用のレコード)を1枚だけ隠し持ってて、離れの小屋で密かに聴いてめちゃくちゃ感動して、戦争が終わったら絶対に音楽をやると決めたらしいんですね。

 武満さんは戦後、西洋音楽が一番洗練されてると思ってあれこれ勉強して、さらに世界中のいろんな音楽も見てみようと思ったんです。そしたら西洋以外は、ほとんど琵琶や尺八のように美しい音色が出る瞬間を重視してたんです。武満さんは、音楽と音色は不可分であるはずなのになぜこんなことが起こるのだろうと考えた結果、さっき話したように西洋音楽は記述できない音楽を切り捨てていたからだということに気づいた、というようなことが書かれていました。 これを読んで、めっちゃわかるなあと思ったんですよ。

――アフリカ音楽にも「演奏してるこの瞬間にこそ意味がある」みたいな考え方がありますよね。

 そうっすよね。武満さんもこの本の中で「西洋音楽は旋律、リズム、それにハーモニーが加わり、この3つは音楽が作れた欠かせない要素ですが、日本の音楽はそれと違って旋律よりむしろ音色を大事に考えています 」と書かれてるんですよ。これって(機材や方法論が発展した)今なら普通にできることだと思うんです。DJだったら(四つ打ちの)キックだけを鳴らして、音色を変えることで展開を表現していくみたいな。これを読んで、武満さんは「ノヴェンバー・ステップス」でそういうことにトライした人だったんだなって思いましたね。

――『遠い呼び声の彼方へ』というタイトルもかっこいいです。

 装丁のデザインもすごくいいんですよ。 “批評について”という文章で「四十年の間に、私の音楽も……表現の技術は昔よりは少し豊富になっている。だがそれは本質的な変化というものではない」「なぜなら私は、音楽を通して、自分を、絶えず、変えたいと希求し、だがその変化への欲望を持続することにおいて、私はけっして変化しない 」と言ってるんですよ。ここも「同じこと考えてるやつおった!」でした(笑)。

 本を読む人にも何パターンかあると思うけど、多くは本を読んで自分が変わっていくのを楽しむ/求めるみたいなとこがあると思うんですよ。でも変わりたいと言ってる自分(自身の根本)は変わらないじゃないですか。ものすごく勉強された武満さんに比べて、僕なんて楽譜のひとつも読めん人間なんですが、こと音楽に関してはそう変わらんことを思うんやなと感じられたのはすごく面白かったです。

【後編】okadadaの音楽論に迫る5冊 DJとして考える。場所と不可分の音が、記録されて広まることの意味

インタビューを音声でも!

 好書好日編集部がお送りするポッドキャスト「本好きの昼休み」で、okadadaさんのインタビューを音声でお聴きいただけます。