まずコロッケを揚げる。それからパンをトーストして、隙間なくバターをのせる。最後に刻んだキャベツとコロッケにウスターソースをかけて、二枚のトーストで挟む。これでコロッケパンの完成です、と、この時評を始めたら「なんだ? なんだ?」と注意を集めるかもしれない。だとしたら、それが江國香織『シェニール織とか黄肉(きにく)のメロンとか』(角川春樹事務所)が持った力である。コロッケパンの先ほどの描出(レシピ)はそこからまるまる引用したに等しいから。これは中心人物である五十代後半の女性・民子の母親が、民子の友人・理枝のために作った。理枝は長く海外にいたのだが、帰国して民子たちの生活空間に転がり込んでいる。また民子と理枝にはもう一人の学生時代からの友人・早希がいて、三人は当時はそのまま「三人娘」と呼ばれていた。が、現在は当然ながら「娘」ではない――との立ち位置から本作は展開するのだけれども、いま言った“立ち位置”がどんどん揺れたりブレたりする様がこの小説の最大の魅力だ。たとえば民子が触れるのは実母だし、それは理枝には親友の母親だし、早希が普段から接するのは義母だ。このように“母親”にすら三種類あって、ぜんぜん一様ではない。同じ人物すら、誰と話すかでキャラクターの輪郭を変容させる。そこに民子の死んだ友人の娘とそのボーイフレンド、理枝の十代の甥(おい)とそのガールフレンドなど別の世代の“立ち位置”が重なり、どんどんと層を生む。人間関係の輪の広がり(これはあんがい途方もない)と層の重なり(こちらもけっこう途轍〈とてつ〉もない)が、実は一人の人間の「生」を構成しているのだとこの小説は教える。そして豊富な食の話題から、人間は食べないと生きていけないのだ、とも。生は食だ。
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甘耀明(カンヤオミン)『真の人間になる』(白水紀子訳、白水社)で印象的かつ圧倒的なのは、第二次大戦のその前と直後の台湾には、漢人も日本人も原住民族もいた、さらにアメリカ人すらもいて「皆生きていた」という事実を、違う言語があるということ、違う価値観すなわち正義があるということ、また違う食習慣があるということ、等といった多様な面を通して描いている厚みだ。これもまた層であり、たとえば食に関して言えば、高山ネズミの焼いた尻尾、というものが出る。が、こうした異文化の食が台湾山中に墜落した米軍機の捜索のプロセスの内に語られる時、そこには確かに食の「豊かさ」が滲(にじ)む。それは個々の文化に固有の価値観と、ある種の偏見を容易に揺さぶる。
現代日本でそのような括弧付きの「原始的な食」を強いられたら何が起きるか? これを描いたとも評せるのが赤松りかこ「シャーマンと爆弾男」(「新潮」十一月号)だった。大学の「教授」である母親から精霊と交信できる本当の人類の言葉を学べと教え込まれた娘は、実際は南米の民族の子供である。そして成人して、三十半ばの現在、たとえば多摩川の支流で捕獲した鮒(ふな)を「骨が崩れるまでに煮る」ような調理=食を続けている。だが、自分に与えられた誕生の挿話(とは神話だ)が全部偽りだったのかもしれないと学ぶ時、つまり“偽のシャーマン”だったと自覚した瞬間に、二つの文化を真の意味で融(と)けさせる道へと進む。
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では、実際に幼少期をカリフォルニアで過ごし、異文化体験の基層を持った者たちは、日本社会でどのように人間関係の輪を広げるか、層を重ねるか? 川上弘美『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』(講談社)は、そもそも人生とは「ある世界」から「似ているけど異なる世界」に飛んでしまうことの連続から構成されているのかもよ、と囁(ささや)く。ここでは主人公の六十年余の「生」が、コロナ禍の「日常」と並行して眺められる。だが主人公とともに「日常」を経験することで、私たちの一日一日はそれぞれに短いけれども豊かであり、平凡に見えがちだけれども異様である、と知る。それを象徴するのは物語の終盤に登場する手羽先と野菜のスープで、一週間以上は煮返されて食されつづける(らしい)このスープは、見た目はもちろん変容する。不気味になる。が、味わいは豊饒(ほうじょう)になる。しかも雑炊にも変わる。こんなふうに解説すると教訓じみるが、誤解だ。作者は何も諭そうなどしてはいない。「日常」には時空の拡張とも呼べる要素がつねに孕(はら)まれていて、この拡張の先っぽと先っぽに、人の誕生があり人の死もあるのだ、と囁いている。=朝日新聞2023年10月27日掲載