「フェルナンド・ペソア伝」書評 自身からの逃走のための別人格
ISBN: 9784087718232
発売⽇: 2023/08/04
サイズ: 20cm/491p
「フェルナンド・ペソア伝」 [著]澤田直
ポルトガルの国民的な詩人ペソアについて、私はこの詩人のイタリアへの紹介で大きな貢献のあった作家、アントニオ・タブッキを通じて初めて知った。それ以来、私はおりに触れペソアのことを気にしたが、確固たる像を結ぶことはついになかった。それが必ずしも私の怠惰によるものでなかったことが、日本で最初の本格的な評伝となる本書を読んではっきりした。ペソアはひとりの作家としての生涯を描くことが困難、というよりほとんど不可能に近い詩人だった。
ペソアは「異名者」と呼ばれる70もの別の人格を作り、生涯にわたって文章を書き分けていた。その量は膨大なもので、死後に見つかっただけで約2万7500点に達する。これは生前に発表した創作が何十分の一にも満たなかったことを意味する。ペソアにはこれらの詩を書物として完成する意思も希薄だった。だが、それは創作が未完だったことを意味しない。創作という行為が現実の自分からの脱出を意味するなら、脱出に完成などありえない。
同じことは異名者についても言える。そもそも一人の人間にひとつの作家性が帰属するなど、いったい誰が決めたのか。現代の文学は依然としてこの慣例をやめようとしないけれども、それは端的に言って文学という制度が作家というブランド(商標、銘柄)を必要とするからだ。
だが、ブランドは放牧している家畜を管理・識別するために所有者が押した独自の焼き印に由来すると言われる。ペソアはそのような焼き印から逃げ延びるため、自身が自身から逃げ延びるための無限とも思える迷路を際限なく詩文で書き続けた。
できるなら本書を手にしてカバーを外してみよう。そこにはペソアが綴(つづ)った詩文の痕跡が印刷されているが、識別のための焼き印からは限りなく遠い。おのれからの逃走のための狂気にも似たとめ処(ど)ない蠕動(ぜんどう)と呼べるだろう。
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さわだ・なお 1959年生まれ。立教大教授(仏文学)。著書に『〈呼びかけ〉の経験』『新・サルトル講義』など。