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【埼玉編】地味に働く人たちの王国 文芸評論家・斎藤美奈子

数少なくなったキューポラの後方では高層マンションの建設が進んだ=2004年、埼玉県川口市

 ダさいたまとか、翔(と)んで埼玉とかなにかと揶揄(やゆ)の対象にされてきた埼玉県。ダサさは武器だ。埼玉の文学は地味に働く人の王国である。

 まず思い出すのは田山花袋(かたい)『田舎教師』(1909年/新潮文庫)である。明治末期、熊谷の中学を卒業し、三田ケ谷村弥勒(みろく)(現羽生〈はにゅう〉市)の高等小学校の代用教員になった主人公の清三。〈四里の道は長かった。その間に青縞(あおじま)の市(いち)のたつ羽生の町があった〉。行田(ぎょうだ)から勤務先まで徒歩で通う清三は上京の夢がかなわず、いじけぎみである。けれどこの作品には若者のリアルがあふれている。花袋を読むなら『蒲団(ふとん)』よりこっちでしょ、といっておきたい。

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 さらに、埼玉県を代表する作品といえばこれ、早船ちよ『キューポラのある街』(1961年/講談社文庫)、1950年代末らしき川口を舞台にした職人一家の物語だ。主人公のジュンは中学3年生。高校進学を望むも〈あたしのとうちゃんは、キューポラの炭焚(た)きで、鋳物職人としては古手だけれど、工場の吹きの日は四日に一度ぐらいでしょ。それなのに、飲むのは毎晩よ〉。

 キューポラとは鉄を溶かす小型の炉のこと。川口は鋳物の町、工場の煙突は町のシンボルだった。東京に隣接した埼玉県は江戸の経済を支える産業や流通で発展し、そのぶん時代の波ももろにかぶった。

 和田竜『のぼうの城』(2007年/小学館文庫)で描かれた忍城(おしじょう)のお膝元(ひざもと)・行田は日本一の足袋の生産地。池井戸潤『陸王』(2016年/集英社文庫)の舞台である。こはぜ屋は100年続く老舗足袋業者だが、いまや廃業寸前。が、4代目社長の宮沢は思いつく。マラソン足袋で失敗したウチでもランニングシューズは作れるはずだ! 銀行に融資を断られても、一線のランナーに試走を拒まれても、靴底の素材の特許を持つ老人に追い返されても宮沢はくじけず、やがて新しいプロジェクトが動きだす。ドラマもヒットした中小企業応援小説である。

 新規事業に挑む人あれば、古い技術を生かす人あり。ほしおさなえ『活版印刷三日月堂』シリーズ(2016年~20年/ポプラ文庫)は小江戸の愛称で親しまれる川越の物語。ふとしたことから亡き祖父の活版印刷所を継いだ弓子。レトロな印刷技術は、名入りのレターセットや俳句を刷った喫茶店のコースターとしてよみがえる。興奮して〈活版印刷だよ。ジョバンニが働いてたとこだよ?〉と語る高校生。昭和の印刷技術が全6冊の多様な物語を生んだこと自体、驚嘆に値しよう。

 とはいえ活版印刷は、半ば趣味の領域である。奥泉光の芥川賞受賞作『石の来歴』(1994年/講談社文芸文庫『石の来歴・浪漫的な行軍の記録』所収)は、趣味に没頭しすぎて家庭を崩壊させた男の話。

 レイテ戦の生き残りである主人公の真名瀬は復員後、亡き父が秩父に残した書店を営む傍ら、石の収集にハマった。各時代の地層を有する秩父は地質学の宝庫である。休日は地形図とハンマーを手に岩石採集に励み、夜は土蔵で石を磨く。やがて彼は愛好家の間で名を馳(は)せ、小学生の長男も石に興味を抱くが……。戦地の記憶を軸にした戦争小説の一面も持つものの、仕事と道楽は紙一重。秩父という土地の強さと、石に対する真名瀬の執着に舌を巻く。

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 同じようなマニア気質の子どもたちもいる。銀林みのる『鉄塔 武蔵野線』(1994年/新潮文庫など)は「武蔵野線75―1」と記された鉄塔に興味を持った小学生が埼玉県内から東京へと続く送電線の鉄塔をひたすらたどる冒険譚(たん)。

 地域探索への欲求は青木淳悟『学校の近くの家』(2015年/新潮社)に引き継がれた。主人公はS山市(狭山市?)の小学5年生。「S山らしさはどこにあるか」という宿題が出て、彼は仲間と徒歩圏内の旅に出た。「全国一汚い川」に認定されたF川(不老川?)。航空自衛隊入間基地。高さ日本一の道標と一面の茶畑。時は1990年代。断片的な風景と記憶の集積は子どもから見た地域の姿そのものだ。〈県内ですら、ある範囲を越えるとそこはもう知らない町ばかり〉。地面に張りついてこそ見える景色。『田舎教師』もしのぐハイパーリアルの世界である。=朝日新聞2023年12月2日掲載