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由美村嬉々さんの絵本「バスが来ましたよ」 小さな手がつなげていった善意のバトン

小さな新聞記事から絵本に

――「バスが来ましたよ」。目が見えない男性の腰にそっと手を添え、バスの乗り降りを手伝う小学生の女の子。その小さな親切がまわりの子どもたちにも伝わり、受け継がれていく……。障がいをもつ男性と子どもたちとの交流を描いた由美村嬉々さんの絵本『バスが来ましたよ』(アリス館)は、実話をもとにした物語だ。作品のきっかけは、オンラインで読んだ小さな新聞記事だったという。

 10行ほどの記事でしたが、女の子が自ら起こした小さな親切が、私の中で大きな感動となってわーっと広がっていったのです。温かい小さな手が男性の腰に触れ、「バスが来ましたよ」と声をかけたことからすべてが始まった。その光景が目に浮かんで、この話を絵本の形で伝えたいと思いました。その日のうちに、絵本のネームがスラスラと浮かんでいって、書いていたら矢も盾もたまらなくなって、記事になった和歌山の男性、山﨑浩敬さんに会いにいくことにしたのです。和歌山駅前のホテルのロビーでお会いして、絵本にしたいのですが……と伝えたら、すごく喜んでくれました。

――その後、何度も和歌山に足を運び、取材を重ねていく。

 実際に彼が通勤に使っているバスに乗ったり、子どもたちが通う和歌山大学教育学部附属小学校の校長先生にもお会いしたり、納得できるまで和歌山に通いました。

 山﨑さんの第一印象は、目が見えないとは思えないほど快活で、アクティブ。自分のことよりも相手のことを気遣う優しい方で、「自分を助けてくれた小学生たちの勇気や優しさ、思いやりの気持ちが、僕は嬉しいんだ」って。彼自身がそれまでどれだけ苦しんだかを聞いたのは、かなり経ってからでした。進行性の目の難病を患い、目が見えなくなっていく過程で、相当落ち込んで自暴自棄になってしまったこともあったそうです。恐怖の中、ものすごい努力をして、時には壁にぶつかったり溝に落ちたりしながらバス停に行って、乗車口がどこかも見えない状況。バスに乗るだけでも、すごく勇気がいることだったと思います。それなのに、モタモタするなという感じで舌打ちする人もいたそうです。

『バスが来ましたよ』(アリス館)より

――そんな山﨑さんを助けてくれたのが、小さな温かい手だった。

 声をかけた女の子にも会って話を聞きました。ずっと山﨑さんのことが気になっていたそうです。乗るときにおどおどしていても、気にかけない人が多くて、いつか私がちゃんと助けなくちゃって。声をかけるのは、すごく勇気がいることだったと思います。まわりの子どもたちも、最初は「なに? あのおじさん」と思っていたのが、だんだん気づくようになって、「今日はボクがやります」と、自然に伝承されていったそうです。本の中でも、子どもたちが変化してく様子が絵に描かれています。

『バスが来ましたよ』(アリス館)より

 タイトルの『バスが来ましたよ』というのも、実際に女の子がかけた言葉です。実は『バスがきました』(三浦太郎作/童心社)という人気の絵本があるので、ためらいはあったのですが、私はこの言葉から始まったから、絶対にこのタイトルじゃないとダメだと思っていました。

絵本だからこそ表現できたやさしい世界

――心温まる物語が読者の心に素直に響いてくるのは、実話だということだけでなく、松本春野さんが描くやさしい世界観もあるだろう。

 絵は誰に描いてもらおうかすごく考えて、登場人物の心情やその場の空気感を描ける人がいいと思って、春野さんにお願いしました。彼女は、私の話に共感して、涙を流してくれました。「そんないい話があるんですか」って。そういう感受性豊かな方なので、彼女とならきっとうまくいくと思いました。

 一緒に和歌山にも取材に行きました。バスの車内を描くために、バス会社に頼んで特別に乗車させていただき、我々がモデルになって、春野さんにスケッチしてもらうなどしました。彼女だからこそ描けたんだと思います。子どもたちに引き継がれていった善意のバトンを、読者が自分事として捉えて読んでくださるように、子どもの心情、それを感謝して受け止める主人公の心情を丁寧に掘り下げながら絵に表現してくださいました。

――印象的なのは、女の子が男性の腰にそっと手を触れるシーンだ。

『バスが来ましたよ』(アリス館)より

 最初、この場面はなかったんです。でも、ここから始まった小さな親切のリレーなので、ここをクローズアップしないと伝わらないと思って、春野さんと編集者の山口郁子さんが相談して入れてくださいました。知らないおじさんの腰に手を当てたら怒られるかもしれない、そう思いながら、勇気を出して震える手で「バスが来ましたよ」って。ここが一番見せたい部分で、すべては、ここから始まったのですから……。

 この絵本は、春野さんや編集者の山口さん、デザイナーの椎名麻美さんがいなければできませんでした。絵本ではなく、小説やエッセイなどにした方がいいんじゃないですかっていう声もあったのですが、絶対に絵本がよかった。絵本じゃなかったらこの話の良さは出なかったと思います。

子どもの頃の夢、思いがけず実現

――本作が絵本作家デビュー作となった由美村さん。長く編集に携わってきた経験から誰かに書いてもらおうというのではなく、自身で書きたいと思ったのは、子どもの頃からの夢でもあったからだという。

 小学校2年生の時、将来は新聞記者か編集者か作家になると作文に書いていました。新聞記者も編集者も経験してきたので、あとは作家だけ。だから、残りの人生は自分で書いてみたいなと。最初は絵本を書こうと思っていたわけではないのですが、この話に出合ったのがきっかけになりました。常日頃、私の信条としている「利他の心」の光景がぱーっと目に浮かんだのです。目に浮かぶってことは絵があるわけで、これは絵本しかないと思いました。

『バスが来ましたよ』(アリス館)より

 今後も、背景に真実がある絵本を書いていきたいですね。ファンタジー作品の依頼もいただくのですが、ファンタジーなら、私より上手に書ける絵本作家さんはたくさんいて、私はみなさんをリスペクトしているので、そういう方たちが書いた方がいい。私は、私にしか書けないものを書きたい。取材をしてノンフィクションにフィクションを融合させるのは得意なので、そこで力を発揮したいですね。絵本以外にも、これまで書き溜めてきた山のような執筆メモの中からどんどん書いていこうと思って、今、10冊ほど並行して執筆しています。

――作家以外にも、さまざまな活動をしている由美村さん。そのひとつに、社名でもある「チャイルドロア」という考え方を広めるものがある。

 子どもたちの自発的な「遊び」と「学び」から得られる意欲・好奇心・感受性・自己肯定感などを刺激するさまざまな活動、子どもから子どもへと伝承されていく遊びの文化を「チャイルドロア」といいます。大人が子どもに与える児童文化ではなく、子どもの存在に根差している固有の文化です。子どもたちが自ら考え、小さな親切を継続していった『バスが来ましたよ』は、「チャイルドロア」そのものです。ですから、この話に出合い、絵本を作れたことはとても幸せでした。これからも子どもから大人まで多くの方々の心に届く本を執筆していきたいと思っています。