彦坂木版工房の絵本「パン どうぞ」 どこにでもありそうなパンだからこそ、ふくらむ想像

――「あんパン どうぞ」「ぱくっ」焼きたてのいい香りがしてきそうな、おいしそうなパンの絵が次々と登場する絵本『パン どうぞ』(講談社)。彦坂有紀さんともりといずみさんによる夫婦ユニット「彦坂木版工房」が手がけた、はじめての絵本だ。うつくしい焼き色とふんわりやわらかそうなパンは、子どもだけでなく大人でも「ぱくっ」と食べたくなる。これらの絵は、すべて木版画で描かれている。
彦坂有紀(以下、彦坂):大学生の頃に木版画をはじめて、アルバイト先のレストランに並んでいたパンを木版で描いたらきれいなんじゃないかと思ったのが、パンを描き始めたきっかけです。子どもの頃から、母が家でパンを焼いていたので、パンはとても身近なものであり、どこかで魅力を感じていたのかもしれません。卒業後も、仕事をしながら木版を続けていました。
もりといずみ(以下、もりと):僕と彦坂が出会ったのもその頃でした。パンの絵を小さなカフェで見せてもらって、一目惚れしました。この絵はすごい! と思って、「絶対仕事にしたほうがいい、僕がサポートするから」と言って、一緒にやることになりました。でも、どうやって仕事にしていったらいいかわからなかったので、個展を開いたり、自費出版で作品集『パンと木版画』を作って本屋さんを巡ったりしていました。その一つが吉祥寺にある古書店「百年」で、興味をもってくれて「原画展やってみない?」と誘ってくれたんです。
彦坂:その原画展に講談社の編集者・長岡さんが来てくださって、「パンの絵で絵本を作りませんか?」って声をかけてくれました。パンの絵を見たときに、「どうぞ」って差し出された気分になったから、「パンをどうぞ」ってする絵本を作ってくださいって。タイトルそのままですよね(笑)。
――はじめは、絵本を作ろうと思ってもいなかったので、戸惑ったというふたり。
彦坂:絵を仕事にしていきたいと思いつつ、どんなふうに仕事になっていくのか想像もできていなかったんですけど、なんとなくイラストレーターみたいな働き方なのかなと思っていたときに、「絵本」って言われて。お話も考えなきゃいけないのか……、自分にできるのかなって思いました。
もりと:僕は、広告とかパッケージとか、そういうキラキラした仕事をしたいのに、「なんで絵本?」って。当時は、絵本は子どもっぽいものというイメージがあって、僕らが進みたい道とは違うんじゃないかって思ったんです。でも、彦坂に「木版画を小さな子どもたちに見てもらえたら、すごくいいと思わない?」って言われて、気持ちが変わりました。
――あんパン、ロールパン、クリームパン……。登場するのは、子どもたちも知っている素朴なパンたち。
彦坂:個人店のパン屋さんとか、素材にこだわっている有名なパン屋さんのパンを描くよりも、スーパーやコンビニで売っている普通のパンを描くようにしました。普遍的な、どこにでもありそうなパン。それが結果よかったんだなと思います。
もりと:みんなが知っているパンにしたことで、読んだ人が好きに想像してくれるんです。「うちの近所のパン屋のパンに似てる」とか、「子どもの頃に家族で作ったパンに似てる」とか。自由な解釈をしてくれるのがうれしいですね。最後にいろんなパンが並んでいるページも作って良かったなって思いました。読み聞かせのときにメロンパンが好きな子がいて、最後にやっと自分が好きなパンが出てきて、すごくよろこんでくれたのもうれしかったです。何かしらみんなが好きなパンが出てくる。チョココロネがあってもよかったかな、と思うこともありますね。
――『パン どうぞ』を作り始めた頃から、イラストレーターとしての仕事も忙しくなってきたふたり。食べ物にこだわり、木版で描いている。
もりと:はじめは、彫りも摺りも彦坂がやっていましたが、すごく忙しくなってきたので、僕も彫りを担当するようになりました。若い頃、職業訓練校で木工の勉強をしていたので、刃物の使い方は覚えていたんです。今は完全に僕が彫り、彦坂が摺りと分業でやっています。
彦坂:木版の面白いところは、同じ版木を使っても摺り方一つで全く違う表情が出せるところです。例えば、ロールパンなどしっとりしているパンは、紙を湿らせてから摺りますが、フランスパンみたいな硬いパンを描くときは、湿らせずに乾いた紙のまま摺ることで、バリッとした質感が出せます。
――おいしそうに描くポイントは、まず食べること。
彦坂:食べ物の特徴は見た目以外にも、味や食感や香りなど色々あるので、必ず食べて味わうのが大事だと思っています。例えばクリームパンだったら、クリームが入っているから持つと重いので、厚みを出すと重たく見えるんじゃないかと考えて、立体感が出るように陰影をつけてみたり。色が薄いと軽く見えるような気もするので、茶色を濃くしてみたり。
もりと:本物そっくりに描くのではなく、食べたときのことを思い出しながらね。
彦坂:今思うと『パン どうぞ』のときは、まだそこまでできていなくて、全部描き直したいって思います。パッケージや広告の仕事をしていると、2、3秒で目に止まるような強い絵にすることを意識するようになって、そういう絵を描いていると、『パン どうぞ』のパンは、素朴すぎる(笑)。特にジャムパンとか。でも、このときにしか描けないものもあるので、これはこれでいいんです! ギラギラしていないというかね。
もりと:僕は、そのジャムパンが好きです。読み聞かせをしているときに、「次はどんなパンが出るかな?」って読んでいくと、このページで子どもたちが「あれ? これなに?」ってなる(笑)。食べてみようってページをめくると、「ジャムパンだったのか!」って。だから、ジャムパンの絵というよりも、読み聞かせをしたときの、子どもたちの表情が好きです。
――『パン どうぞ』以降、食べ物の絵本を描き続けてきたふたり。「なんで絵本?」からはじまり、ここまで続くとは思っていなかったという。
もりと:『パン どうぞ』が出た後、編集者・長岡さんに「次回作どうします?」って言われて、びっくりしました。そんなこと考えてもいなかったから、終わりじゃないの? って(笑)。
彦坂:作りきった感じもあったしね。それで一回断っちゃったんだよね。
もりと:でも、翌日になって、やっぱりあの話はもったいないんじゃないか、せっかく言ってくれたんだからやってみようって。今は、続けてきてよかったなって思っています。
僕、毎週、近くの幼稚園で読み聞かせをしたり、絵本屋さんでお手伝いをしたりして、どんどん絵本の世界にはまっていて、絵本が楽しくて仕方がないんです。『パン どうぞ』のおかげ、彦坂のパンの絵があったおかげで、絵本という、すてきな仕事に出会えました。毎週の読み聞かせが楽しみで、今ではお酒を飲んでもずっと絵本の話をするぐらい絵本が好きです(笑)。
彦坂:娘が生まれたことも大きいですね。生まれる前は、私がメインで絵コンテを考えていたんですけど、生まれてからは、もりとが全部やるようになりました。私は描きたい絵が先にあって、そこから構成を考えるんですけど、もりとは文章や構成を考えて、そこに絵をはめていく感じなので、絵本の作り方も少し変わっていきましたね。
もりと:僕は、ふたりで作るだけじゃなくて、きくちちきさんやザ・キャビンカンパニーさんとも絵本を作っています。今後も絵本の仕事は続けていきたいですね。
彦坂:私は絵が描ければそれでいいので、絵本でもイラストでも、描き続けていけるといいなと思います。
もりと:2025 年7月12日からは、富山の黒部市美術館で個展を開催します。ふたりではじめた「彦坂木版工房」の結成15周年を記念した美術展です。『パン どうぞ』ができるきっかけになった、作品集『パンと木版画』の木版画や、『パン どうぞ』の原画も展示するので、ぜひみてもらえるとうれしいです。