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なにもしない 千早茜

 もう師走。一年が終わると思うと、毎年「なにか成さねば」と焦るのだが今年は違った。年の始めに大きな文学賞をいただいた余波で、前半は目がまわるほど忙しく、後半は結婚に引っ越しとプライベートも慌ただしかった。新刊も文庫もすべて、出版社との約束通り刊行した。まだ開封していない段ボール箱は残っているが、「充分(じゅうぶん)に成した」という気分だ。

 むしろ今年は、なにもしない時間こそ少なかった。休日や予定のない日も先々のことを考えていた。来週は外出が多いから常備菜を仕込んでおこうとか、次のインタビューやイベントのために服を探そうとか、次作の資料本を集めておこうとか。今じゃないことのために今という時間を埋めてしまい、自分で自分を息苦しくさせていた気がする。

 なにもしない時間を過ごすのだ、と決め、まずは物理的に隔絶された空間を獲得することにした。馴染(なじ)みがない地域の、山の中にある温泉宿を予約した。歩いていける範囲にコンビニもスーパーもない。行き先は誰にも告げず、向かう途中や帰路で用事を入れない。そう決めて、本も持たずに電車に乗った。

 しかし、ふとひらいたSNSで、好きなケーキ屋さんの新着情報を見て、つい立ち寄ってしまう。温泉で食べるケーキと来週分の焼き菓子をあれこれ買ってしまい頭を抱える。今のことだけに集中すると決めたのに。おまけに、買った菓子を電車の中に忘れた。温泉宿に到着してから問い合わせ、終点の駅で回収してもらったが暗澹(あんたん)たる気分であった。

 落ち込んだまま温泉に浸(つ)かる。宿は風が樹々(きぎ)を揺らす音しかしなかった。露天風呂で暮れていく山の端を眺め、部屋に運ばれてきたものを食べ、湯に浸かり、とろとろ眠って、ふたたび湯に浸かった。思考が湯に溶けるかと思ったのに、気づいたらメモを取っていた。なにもしないことは不可能なのだと思った。

 次の日、忘れ物を取りに終着駅へ行った。知らない町を歩くと、脱皮したように楽しい気分になった。=朝日新聞2023年12月6日掲載