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藤岡陽子さんがいまも銭湯が好きな理由は

©GettyImages

 子供時代のいちばんの楽しみは、祖父母の家に遊びに行くことだった。
 祖父母の家は私の自宅からバスを2本乗り継いでたどりつける同じ京都市内にあり、二条城の近くにあった。 露地に面した10坪ほどの2階建ての古家で、トイレは家の外の小さな裏庭にある。縦長の台所は人がすれ違えるスペースすらなく、風呂もない。
 だがこの狭くて風呂がない古家だからこそ、私は気に入っていた。なぜなら祖父母の家に泊まりに行くと、近所の銭湯に連れて行ってもらえたからだ。
 行きつけのその銭湯は、祖父母の家から歩いて15分ほどの所にあった。実際はもっと近かったのかもしれないけれど、当時は私も幼かったので、銭湯までの道のりをそこそこ長く感じていたのだ。そしてその銭湯への往復すらも、私にとっては胸躍る時間だった。

 薄暗い夜道を、祖母と手をつないで歩いていく。すると、露地の角に鎮座しているお地蔵さんに出会うのだ。
「まんまんちゃん、あん(お地蔵さん、ありがとう)」
 お地蔵さんを見たら頭を下げ、感謝を口にするという作法は祖母から教わった。お地蔵さんは疫病が地域に入ってこないための魔除けであり、子供たちを厄災から守ってくださる菩薩でもあるそうで、身に着けている赤い頭巾やよだれかけは、「わが子が無事に育つように」という願いを込めて地域の人々が奉納していると聞いた。
 祖母といろいろな話をしながら銭湯に着き、女湯の暖簾をくぐると、いつも同じ福福としたおばさんが番台に座っていた。「お孫さん、大きならはったなぁ」などとおばさんと祖母が軽口を交わすのを眺めた後は服を脱ぎ、清潔で明るい浴場に入っていく。
 浴場にはちょっと大きめのお風呂、深くて熱めのお風呂、電気風呂、水風呂の4種類があって、私は必ず毎回水風呂に入った。
 冷たい風呂が好きだったからではない。私が水風呂に入ると、祖母が「そんな冷たいとこ、よう入れんなぁ」と目を丸くするので、その顔が見たくて意気揚々と水の中に体を浸した。
 風呂から出ても、まだまだ楽しみは続く。祖母に10円玉を何枚かもらって、パーマ機のようなカバーを頭に被せるタイプのドライヤーで髪を乾かした後は、飲み物を買う。脱衣場にある小さな冷蔵庫にはフルーツジュース、コーヒー牛乳、スコールなどがぎっしり並んでいて、私はたいていマミーという90mlサイズの乳酸菌飲料を選んだ。
 ちなみに昭和の銭湯で販売していたジュースは瓶詰のものがほとんどで、飲み口は紙製の蓋で閉じられ、その上から黄色やピンク色、紫色をしたビニール製の「リボンフード」が被せられていた。飲む前には「ピック」と呼んでいた先っぽに針がついた道具で紙製の蓋を突いて外し、その紙キャップは持ち帰ってコレクションにしていた。

 ……と、ここまで書きながら、懐かしくて頬が緩んできた。大好きだったなぁ、と浴場を満たしていた白い湯気や、祖母の肉付きのいい滑らかな背中や、かまぼこ板ほどの厚みがある下駄箱の木製の鍵などを思い出す。
 いま流行りのスーパー銭湯のように、ジャグジーや露天風呂、サウナや広い休憩スペースがあるわけではなかったけれど、私にとっては完璧で最高の銭湯だった。
 風呂上がりのポッカポカの体で家に戻ると、同じくらい温もった祖父が待っていて、3人で花札をした。花札は私が圧倒的に強くて、祖父と祖母が笑いながら「陽ちゃんにはかなわへんなぁ。ほんま強いなぁ」と褒めてくれるのが誇らしかった。
 あの頃からすでに40年ほどの時が流れ、祖父と祖母はもういない。完璧で最高だった銭湯もなくなり、いまはどこにあったのかすらわからない。大人になっていく時間の中で、私は多くのものを得ていったが、それと同じくらい大事なものも手放してきたのだろう。

 あれは何歳の頃だったか。私が花札でいつも圧倒的な勝利をおさめられるのは、祖父と祖母が札を配る時に細工をしているからだと気づいた。「松に鶴」「桜に幕」「芒に月」「柳に小野道風」「桐に鳳凰」といった20点の光札が私の手札になるよう、配ってくれていたのだ。祖母がマジックの仕掛けをするように、光札を私の元に届くよう並び変えているのをある時見てしまい、ああそうだったのかとようやくわかった。祖父母の思いやりを知り、それを見破ってしまった自分の成長が切なかった。
 子供の頃と同じように、私はいまでも銭湯が大好きだ。出張に行くと、宿泊先の近くに銭湯がないかと必ず調べる。大きなお風呂と浴場を満たす白い湯気を眺めていると、なんともいえない幸せを感じる。それはきっと、祖母と通った銭湯を思い出すからだろう。
 でももう、水風呂には浸からない。
 入っても驚いてくれる人がいないから、水風呂があっても、ちらりと目をやるだけで通り過ぎている。