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内田也哉子さん「BLANK PAGE 空っぽを満たす旅」インタビュー 亡き両親を見つめ、自分自身を探す対話

内田也哉子さん=篠塚ようこ撮影

光に向かっていくイメージ

――『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』のあとがきには「5年にわたる心情のコラージュとなった」とありますが、あらためてご両親はどのような存在だったと振り返りますか。

 生きている時は、大きすぎて重たい存在。けれども、姿形がなくなってみると、いかに2人が私の中に大切なものを育んでいたのか、と気づきました。失わないと見えてこないものがあるなんて切ないですし、あまのじゃくかもしれないですね。両親が他界して5年経ちましたが、ここまで長かったですし、いろいろな思いが駆け巡ります。

――連載が一冊の本となりました。

 今はさまざまなものがオンラインで見られる手軽さも素晴らしいのですが、エッセイもイラストも含めて、紙に刷られると存在感があって、本というものがこの世に生まれ落ちた喜びを感じますね。連載の時から挿画は次男の玄兎(げんと)が描き、当初8歳だったのが現在13歳になりました。子どもがティーンエージャーに成長するのは、ドラマチックな変化でもあり、喜びでもあります。カバーのアブストラクトなペインティングは、自分で描きました。雲や霧、もやのようなイメージで、少しどんよりしているけれども、その向こうに太陽の光が差している。光に向かっていくイメージです。

――玄兎さんとは、初めての親子共同作品となりますか。

 そうですね。今回は次男と初の共同作業でした。2001年のエッセイ本『会見記』(リトル・モア)では、長男のUTAと長女の伽羅が絵を描いているんです。自分たちでオリジナルのものを作っていくということが、すごく性に合っているんですよね。どちらも思い出深いものとなりました。

ヘアメイク/木内真奈美(Otie)

喧嘩ばかりの両親、意外な一面

――本作でご両親のことが綴られる箇所のうちの一つに、シャルロット・ゲンズブールさんとの対話のエッセイで、希林さんが裕也さんのお誕生日にお祝いのFAXを送っていたことや、そのFAXを裕也さんが大事に保管していたことを、也哉子さんは遺品整理をして初めて知ったとありました。現在は新たなご両親像をお持ちになられたところもありますか。

 ありますね。私が生まれる前から両親は別居していたので、パートナーとして健やかな状態の2人を見たことがないまま、大人になりました。とくに父は言いたいことを言って10秒に1回ぐらいは感情が爆発する人だったので、会うと喧嘩になることもしばしば。家族で集まることが一番緊張する、という家庭でした。

 けれども、母が亡くなった後に探し物をしていたら、一冊の分厚いノートブックが出てきて。そこにたくさんの人からの手紙が貼ってあったり、結婚してすぐの頃に外国から父が母に送った手紙や葉書などもあったり。けっこうまめにいろいろな都市から出しているんですよね。「あの父がそんなことをしていたのか」という驚きや、そこに綴られていた素直な気持ちを知って。根底には、あなたのことを大切に思っているというメッセージが書かれていたのですが、それを私には見せず、母は自分のためにファイルして取ってあったんです。

 父の遺品整理をしていた時にも、同じように大切に母からの便りを箱にしまってありました。なんでも失くしてしまう父が、母から来たFAXをちゃんと保管していたんだなあと。生きている時は一緒にいると揉め事が多かったけれども、人生の後半は追い詰め合うエネルギーが落ち着いてきて。そうした時に、怒りと同じぐらいの熱量で、同じ時代に芸能界という摩訶不思議な世界を突っ走ってきた2人だからこそ、何か他の人には分かり得ない共感を持っていたのだろうと思います。以前より少し楽しい割合が増えていったのでしょうね。

「空白な心持ち」すごく大事

――夫婦といえば、也哉子さんは夫の本木雅弘さんと出会った当初、文通やFAXで親睦を深めた年月を経てご結婚し、今年結婚28年目を迎えました。本作では、エッセイのテーマを模索する也哉子さんに一人旅を提案する本木さんのお話もありましたが、もともと昔から何かを書く、ということがお好きだったのですか。

 本をたくさん読む子どもではなかったですし、学校で出される作文も苦手で、書くことは自分から遠いことだと思っていました。文通のような手紙は、大勢に見せるものではなく、相手へのメッセージを上手じゃなくても、ただ伝えたいから伝えるというモチベーションがはっきりしています。手紙を書く時に、どういう便箋に書こう、こんな葉書を見つけたからあの人に書きたい。そういう思いが、小さい頃から孤独だった私にとっては、大事なコミュニケーションだったんです。

――大人になってからは、書くことへのお気持ちが変わっているのではないでしょうか。

 文章を書くようになったのは、本でも名前を出している秋山道男さんという編集者でプロデューサーの方がきっかけです。19歳の頃、私のある人への手紙を読んで、「この人はエッセイが書けるんじゃないか?」と思って声をかけてくださって。原稿用紙と「Yayako」と刻印されたモンブランのシャーペンをいただいて、書かざるを得ない状況を作ってくれました。「書けるはずがない」と思っていたんだけれども、拙い言葉を綴って見せると、「この感じでいいんだよ」と教えてもらいながら、初めてエッセイを書いて。それがまとまったものが1996年に出した『ペーパームービー』(新装版が朝日出版社から発売中)という本です。そこから細々と書いています。

――こうして本になってみると、也哉子さんにとって、書くということは特別なことになったのではないでしょうか。

 そうなんでしょうね。自分ではちゃんとしたことが書けているかはわからないけれども、書く時は、まず紙と向き合いますよね。それこそ紙には何もない、真っ白な紙、それこそブランクです。真っ白な紙に向かった時に感じる高揚感や、心許なさも含めて、自分が感じた空白な心持ちはすごく大事なのではないかなと。今までは、足りないことを埋めようとしたり、もういっぱいだから捨てたいと思う自分もいたり。けれども、この紙というフレームがあることによって、そこからはみ出すことも収まることも、それこそが自由という感じがしています。

スタンダードは自分が決めるもの

――本作では、小泉今日子さん、中野信子さん、養老孟司さん、鏡リュウジさん、坂本龍一さん、是枝裕和さんなど15名の方々との対話が掲載されています。対話の際は、二人きりで会うことを重視されたそうですね。

 もともと人と会う時には、大勢で会うよりも、その人と一定の深度で交流したいと思っています。一対一が原点で、シンプル。第三者がいると、話をついオブラートに包んでみたり、かっこよく見せようとしてみたり。そうならないためにも、なるべくみなさんとは二人きりで会ってお話を聞くことが、むしろ一番のテーマだったかもしれないですね。対話には、今まで知っていた方も、初対面の方も出てきます。何か書こうとしている人が一人で会いに来るというのは、相手の方もそれなりに面白がってくれないと、そこまでエネルギーを向けられないと思うので、役得だなあと思いながら、15名の方の貴重なお話をまるごと本に封じ込めることができました。

――対話を経て、何かご自身の中で芽生えた感情はありましたか。

 多様な方々との対話だったので、究極的には「これが正解」というものが人生にはないんだな、とつくづく思いました。だから、「自分自身のオリジナルな道を歩んでいけばいい」という説得力にもつながって。もちろん素敵な方々だからこその物事の捉え方があり、消化の仕方があるという憧れや教訓もたくさんあるんだけれども、でもそれが多様であればあるほど、私も勇気をもらえたといいますか。

 これまで両親からは何かを押し付けられたわけではないですが、やっぱりインパクトが強くて、初めて会う人はみんな「あの強烈な両親の娘ね、どんな子かしら」という目で見る。そうならないところへ行こうとして、なるべく匿名性を重視して、普通であることが一番いいというふうにしてきたけれども、今回の対話を経た今は「普通って何だろう?」と。普通ってあってないようなもので、スタンダードは自分が決めていくものだと、これだけ多様な方々と出会ってじっくり向き合ってみて、あらためてそう思いました。

 そして、たとえ転んだとしても、傷ついたとしても、むしろその痛みを知ることによってまた強くなれる。同じような痛みを知った人と、もっとより深くつながれる。だから、この先も生きていれば、いろいろなことが起きてくるだろうけれども、なんとか荒波に揉まれて時に流されながらも、乗り越えていけそうな予感をもらいました。

――家族がテーマの軸になっているところもありますか。

 当初は家族をテーマにとは思っていなかったのですが、私は家族のことをコンプレックスとして育ってきたばかりに、結果的にそうなっているかもしれません。両親を亡くして初めて自分と向き合い、喪に服す作業をしたと同時に、自分の人生を振り返って、これからどうやって生きていきたいかを掘り下げる契機がこの連載だったんだなと。両親が生きてくれていたら、今この時点で感じることは少し違ったはずです。

 母はよく生前に「人は生きてきたように死ぬんだよ」と言っていて。どういう意味だろうと思っていたのですが、母も父も嵐のように生きて、嵐のように去っていった、その去り方がすごく両親らしくて。あまり周りに迷惑をかけすぎないようにと、去り際はさっと潔くという感じがしました。

「ないもの」も愛でられるように

――也哉子さんは文章家としてご活躍ですが、時に役者としても表現されることがありますね。

 役者としての仕事は、プロフィールにも書いていないぐらいです。関わらせていただいた作品は、監督が上手に料理してくださったおかげですし、全部カメオ出演だと思っています。私は小さい頃から時々、「子どもの役の子がいなくなっちゃったから、ちょっとあんた出なさい」と母に言われることがあって映像作品にもかり出されてはいましたが、自分からは一度も演技をしたいと思ったことはないんです。やっぱりそれは母や夫の領域であって、この先もまたお誘いがあったとしても、一期一会のタイミング次第と感じています。ただ、家族の仕事の大変さを身をもって知ることができる貴重な経験に感謝しています。

――裕也さんと最初で最後の親子共演となった映画「ブルー・ウインド・ブローズ」が、同じ富名哲也監督の最新作「わたくしどもは。」とともに話題を呼びました。

 ロケ地が佐渡島で、一定の期間行けるということに魅力を感じて、出演させていただきました。監督に「何もお芝居できないですけど、いいですか」と言うと、「カメラの前でそのまま存在してくれればいいんです」とのことで。佐渡島では、素晴らしい地元の人たちとも出会えました。

 私は自分から何かを開拓して、情熱を持って「こうしたい」と訴えたことがない人生なんです。けれども、なんとなくそこにあるもの、プカプカと浮かんで、自分のほうにコツンとぶつかったものに乗っかってみる。そんな受け身な生き方もありかな、と思うようになってきました。若い頃はやりたいことが何もないことがコンプレックスでしたから、ないものねだりですよね。

 でも、今は逆に、そのないものまでも愛でられる。年を重ねたぶん、ないものも見ようによってはないことがいい、と思えるようになった。母もそういう人だったので、「あの時、母が言っていた感覚はこれだったんだな」と。年を取るのは悪いことばかりじゃない。諦める潔さが身についた分、視点や許容量が広がる豊さを感じつつあります。