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憧れるのはやめましょう。自分の意志で人生を拓けと説く「橋本治という行き方」 中江有里の「開け!本の扉」 #10

(Photo by Ari Hatsuzawa)

 2024年1月。野球選手は2月の春季キャンプ前に、自主トレーニング(自主トレ)を行う。

 我が阪神タイガースの選手たちもそれぞれ自主トレで切磋琢磨している。
 キャンプとも、ペナントレースとも違う、真冬の寒さをもろともしない、新年らしいまっさらな選手たちの表情は清々しい。

 自主トレに、球団、監督、コーチは関わらない。
 言うなれば、自分が監督でコーチだ。
 誰と比べるのでなく、誰と勝負するのでもなく、自分と勝負するような、そんな時。

 「自分との勝負」で、思い出すことがある。

 16歳になる年、初めての映画出演が決まった。
 マネージャーの同行なし。2週間マレーシアに滞在して撮影する。
 デビュー作が海外ロケ! と浮かれていられない事情がある。
 2カ月前に上京したばかりの私は、演技未経験。
 そこでリハーサルとは別に、個人的に演技の特訓を受けることになった。

 演技特訓に入る前、先生はおっしゃった。
 「役のリレキショを書いてきて」
 「リレキショ?」
 「台本を読み込んで、履歴書を書くのよ」
 「は、はい」。意味がいまいちわからないが、とにかくやるしかない。
 勝手にセリフの練習をしないように、と先生は言い添えた。

 先生のおっしゃる履歴書とは、進学や就職に使う定型ではない。あくまで演技の土台になるもの。
 ちなみに私の役は、主役の少年が淡い恋心を抱く幼なじみ。
 出番が少ない。その分、台本に書かれた情報も少ない。
 台本を読んでも、履歴書は埋められない。

 たとえば自分の演じる人間がどんな親の元で生まれ、どんな風に育てられ、どうやって生きてきたのか。好きな食べ物、愛読書、洋服の好み……そんなこと、台本のどこにもない。模範解答がわからないまま時は過ぎる。
 それよりセリフの特訓をしてほしい。焦ったマネージャーがそう伝えると、
 「役を理解しなければ、セリフは言えない」先生はすげなく答えた。

 私(の役柄)ってどんな子やねん? 上京後、封印していた大阪弁が思わず出た。

 “実は私は、「作家になりたい」と思ったことがない。そう思った時には、もう作家のトバ口に立っていた。”

 橋本治のエッセイ『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』にこうある。
 小説家で批評家の橋本治さんのエッセイをたとえるなら、人の毛細血管まで綿密に描いた画のよう。橋本さんは目に見えるもの、感じたものはすべて書かずにいられないのではないか? そんな綿密な文章。
 上の文章のあとに、こんな一文。

 “私にとっての「なりたい」とは、欲望とか願望ではなくて、あくまでも意志なのである。”

 他人からお仕着せられるのを嫌い、自分には「思想」がないと言い切る。
 橋本さんにはロールモデルはなく、憧れの対象があるわけでもない。
 目指すのはわかりやすいゴールじゃない。自分が進むべき道を、ただ進むこと。

 初めての映画出演を前に、私は台本を読み、役柄の履歴書を何度も書き直した。
 そして気づいた。
 答えは台本にはない。
 台本はあくまで地図替わり。台本という地図を見ながら、役柄がここまで辿ってきた道を想像し、履歴書に書き込んでいく。
 日本で生まれてすぐ、父親の転勤でマレーシアへ。病弱だったため、入院と退院を繰り返したが、やがて回復。将来は小児科医になりたい。おしゃれな母の影響で洋服のデザイナーもいいな、と思っている――。少しずつ、自分の役の輪郭が浮かび上がってきた。
 「そろそろ、セリフの練習をしましょうか」。ずっと待っていた先生の言葉。
 隙間なく文字が並んだ、手書きの履歴書をお守り代わりに、初めての海外ロケに臨んだ。

 あの頃は目の前のことに必死で、先のことなんて考える余裕もなかったけど、「この世界で生き残らなあかん」という意志で一つひとつ、体当たりで乗り越えてきた。お手本になるロールモデルなんてない。一人ひとり違う道を、必死で進んできた結果が人生なのだ。

 野球の世界も、きっと選手の数だけ「なりたい」自分がある。
 それと同じだけ、自分の「やり方」「生き方」「行き方」もある。
 What a way to go! どんなトレーニングをするのか、どんな道を行くのか。
 監督やコーチの教えだけではたどり着けない。わずかな手がかりや手応えを頼りに、道なき道をひとり手探りで進んで行く。それがいつか答えになる。

 まもなく春季キャンプが始まる。
 阪神タイガース ARE goes on!  What a way to go!