工藤泰成投手の豪速球から目が離せない。抑えても打たれても「スポーツ3.0」 中江有里

プロ野球シーズンが始まって、毎日が忙しい。
火曜日から日曜日まで毎日、移動中、食事中、休憩中、観られる環境にあれば観ている。
どうしても観られない時は、録画しておいて後で観る。
毎試合後、結果と感想を400字から700字書いている。通称「阪神日記」。
シーズンで143試合もあるのだ。4月の試合を観て、考えたことは9月にはほとんど忘れている。だから「阪神日記」に記録しておく。
今、特に記録しておきたいのは1年目の投手・工藤泰成だ。
2024年度の育成ドラフト1位で入団。秋田出身の工藤投手は四国アイランドリーグでプレーしていた。春のキャンプから猛アピールし、3月に支配下登録をつかんだ。
背番号は24。2023年に28歳で亡くなった横田慎太郎さんの番号だ。
ユニフォームの上からでもわかる筋肉質な体。最速158キロの豪速球。マウンドでの表情、ピッチングフォームも気合が入りまくっている。何にも言っていないのに「誰よりも速い球を投げるぞ!」と叫んでいるようだ。
ちなみに手元にある今年のプロ野球名鑑では、工藤投手は127番のまま。
誰もが想像しなかった嬉しい飛躍を見せてくれ、同年ドラフト1位の伊原陵人投手とともに開幕一軍入り。育成から1年目で支配下にはい上がった、まさにシンデレラボーイ。
その工藤投手を初めて現地で観たのは4月6日の東京ドーム。高卒3年目の門別啓人投手が巨人を相手にプロ初勝利を収めた試合だ。
無失点ピッチングをしていた門別投手が6回裏、2アウト一、三塁のピンチを迎えた。
リードはわずかに1点。打席には絶好調の甲斐拓也選手。一打同点の場面で門別投手は降板となった。
工藤投手の名前がコールされた途端、ドーム内がどよめいた。
新人ながら開幕9試合目で4回目の登板。2球ボールのあと、ストレートでファール、ストレートでファール、最後はワンバウンドした球を空振りさせて三振。ドームに響き渡る工藤コール!
昨年から勝てなかった門ちゃんの勝利を援護してくれた!
工藤投手はシンデレラボーイではなく、王子だ。阪神の危機を救ってくれた王子さま!
3連勝した勢いのまま、本拠地・甲子園に帰ってきた阪神は、ヤクルトに負けた。
翌日、3点リードしていた2戦目。無死二、三塁で降板したビーズリー投手に代わって登板したのは工藤投手。前回と同じようなシチュエーション。これは期待できる!
しかし現実は甘くない。工藤投手はワイルドピッチでヤクルトに1点献上。一つアウトを取った後、暴投でさらに1点を与えてしまう。ここで藤川球児監督がピッチャー交代を告げた。
結局この回で計5点を取られ、阪神は逆転負け。
この日、初めて工藤は敗戦投手となった。
平尾剛『スポーツ3.0』は、元ラグビー日本代表の著者が、これまでのスポーツの常識を覆す提言を示した一冊。
勝利至上主義、体育や部活の指導、暑すぎる夏のスポーツなど、アップデートするべきことはたくさんある。
メディアが選手のストーリーを取り上げるのもその一つだと思う。ストーリーとはこれまでの道のり、背景にあるもので、物語性があると 人々の感心、感動を呼びやすい。
育成から最速で支配下登録されたこと、元クローザーの藤川監督が期待を寄せていること、亡き横田選手の背番号を背負ったこと……工藤投手のストーリーはそろっている。
でもそれが工藤投手のすべてではないし、ストーリーばかり見ていると、見えなくなることもある。
本書にこんなことが書いてある。
「なりふり構わず競技に没頭しているときのあのまなざしや、緊張と不安を押し殺しながら限界を越えようとするときの真剣な表情は、普段の生活ではほとんど目にしない。限られた条件下で全力を出そうと努めるその姿を目にすれば、つい応援したくなる」
チームに関わらず、応援する選手がいる人ならうなずくフレーズだ。
特に私が共感するのは、この後に続く言葉だ。
「目の前で懸命にパフォーマンスをする選手に、自分の人生をなぞらえる人だっている」
工藤投手はシンデレラボーイでも、王子でもない。
それは勝手に私がなぞらえただけ。工藤投手は単にプロ1年目のピッチャーだ。
4月12日の甲子園。中日が2点リードのまま迎えた9回表、登板したのは工藤投手だった。
連続四球でノーアウト一、二塁。自分で招いた危機がプレッシャーになっている。絶体絶命だ。気づくと甲子園の阪神ファンから拍手が起きていた。私も画面の向こうへ拍手を送る。
頑張れ工藤! 負けるな工藤!
次の打者・板山祐太郎選手をダブルプレーに打ち取った。
坂本誠志郎捕手がマウンドに駆け寄り、硬直した表情の工藤投手に話しかける。
次の駿太選手は変化球で三振! 沸き起こる工藤コール!
阪神は負けてるのに、なぜか勝ってるみたいな雰囲気!(結果2-3で負けました)
この苦しい場面で立ち直ったプロ1年目のピッチャーは未完成だ。だけど大きな可能性を秘めている。それだけは確か。
「試合に負けても、自分には負けない」
工藤投手から学んだことを今日の「阪神日記」に書き留めた。