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「ミヒャエル・コールハース チリの地震 他一篇」いまだ新鮮な物語の迫力 藤井光が薦める新刊文庫3点

  1. 『ミヒャエル・コールハース チリの地震 他一篇』 クライスト著、山口裕之訳 岩波文庫 1001円
  2. 『ナイン・ストーリーズ』 J・D・サリンジャー著、柴田元幸訳 河出文庫 891円
  3. 『イギリス人の患者』 マイケル・オンダーチェ著、土屋政雄訳 創元文芸文庫 1320円

 古典から20世紀末まで、人と暴力の関係を探求する物語を時代順に。(1)の表題作では、16世紀のザクセンで、馬商人が領主に不当な扱いを受けたことをきっかけとして闘争を開始し、やがて帝国全体を巻き込んでいく。三つの収録作から、日常が一気に非日常に変貌(へんぼう)するとき、法の外に置かれた人々はどのように振る舞うのかという問いが浮かび上がる。植民地支配や人種の問題については西洋中心の視点が拭えないが、物語の迫力はいまだ新鮮である。

 視点や語り口を自在に変える(2)では、子どもの視点から世界の残酷さをおぼろげに描き、大人同士の会話が中心となる物語では、生きることそのものの困難を浮き彫りにする。ごく平凡な情景から緊迫感とユーモアが共存する物語を立ち上げつつ、人生において芸術の持つ意味を問う手腕が光る。従軍した記憶に苦しみ、後半生は沈黙を貫いたこの作家は、物語の魔法に触れていた稀有(けう)な存在だったと思えてならない。

 第2次世界大戦末期のイタリアを舞台とする(3)では、身元不詳の負傷した男性と、それを看病するカナダ人の看護師、さらにはカナダ人の元泥棒やインド人工兵が屋敷でつかのまともに過ごし、砂漠での探検や爆弾処理といったそれぞれの体験が語られていく。ばらばらな描写が次第に焦点を結んでいく詩的な語り口は絶妙であり、その先に待っているのは、西洋と非西洋の間での植民地支配という歴史に果たして和解がありうるのか、という冷徹な問いである。=朝日新聞2024年2月24日掲載