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増田俊也さんの青春時代の悔恨に刺さった映画「リバー・ランズ・スルー・イット」

高専柔道の試合方式を採り入れた「柔術団体対抗戦」を開催した中井祐樹さん。寝た姿勢から足を絡めて技を仕掛ける=2003年6月

 ブラッド・ピットのブレイクのきっかけとなった『リバー・ランズ・スルー・イット』。川は流れ続ける、何があろうとなかろうと。杜甫の《国破れて山河あり》。日本なら『平家物語』の冒頭に引かれた《諸行無常》の仏教概念である。

 私の心の内には並行して流れ、ときに絡み合うように合流し、また離れて流れ続ける2本の“川”がある。青春時代を通してその2つの川に流され、溺れ、死に際会する危機に何度も遭った。1本の川は北海タイムス社という名の川である。私は1989年の秋、北海道大学柔道部の競技生活を引退してすぐに中退し、秋11月に北海タイムス社に入社した。

・北海タイムス社入社(1989年)
・中日新聞社入社(1992年)

 いま手もとのメモ用紙に年表を書いてみると、この作品、米国公開は1992年10月。日本公開は1993年9月。北海タイムス社を辞めて中日新聞社へと移ったばかりの頃だ。
 初めて観たとき心臓を巨大な鉄製ハンマーで殴られるほどの衝撃を受けた。なぜそれほどショックを受けたのか、当時は自己分析できなかった。必死に向き合って答を出せたのは何カ月も後のことである。

 薄給だった北海タイムスを去り、高給の大新聞社へ移ったことを私は後悔していた。自分で判断し自分で行動したことなのに消化できずにいたのである。後にこの北海タイムス社を舞台にした自伝的小説を書いた。そこで上司のデスクが土下座して転職するシーンを描いた。あれは私自身の姿の投影だ。いや、理想の自分の投影だったのである。土下座をしなければならないのに、涙して謝らなければならないのに、青いプライドが邪魔し、格好をつけたまま仲間たちを見捨てた。
 そんな私の心を鋭く見て取った先輩のSさんが、私が最後の出勤を終えた日の夜、金富士へと腕を引いていき、たった1人の送別会をしてくれた。
「誰が辞めても会社はずっと動き続けるんだ。明日も明後日も明明後日も輪転機は回って、新聞は出続けるんだ。それが世の中だ」
 Sさんはそう言ってビールを注いでくれた。金富士とは当時狸小路の外れにあった安さで知られた汚い場末の酒場である。Sさんは現実的な視点を持つ人物で、私が退社した数年後、政治家に転身している。
 私やSさんだけではなく、会社にいた人たちはタイムスとそれぞれ様々な別れ方をした。私と同じように倒産前に大新聞社や民放へ移る者が一番多かった。しかし労働組合に筋を通して倒産のその日まで残り、その後、悲惨な人生を送った人たちもたくさんいた。私は倒産前後のその慌ただしいニュースを中日新聞社の編集局にずらりと並ぶテレビの前で腕を組み、傍観者として観ていた。
 このときの自分の有り様を私はとても1人では受け止めることができなかった。「馬鹿げてる」と心の内で呟いて自嘲するだけだった。何が馬鹿げてるといって、たとえば中日新聞社の社内野球大会は名古屋ドームで行われているのだ。北海タイムス時代、札幌6社対抗朝野球というものが街角の公園グラウンドで行われていた。朝日新聞社や読売新聞社、共同通信社などが揃いのユニフォームで出てくるのに対し、われわれ北海タイムスチームはユニフォームなど買う金も無く、ジーンズとサンダルの普段着姿で参加していた。それが今では名古屋ドームである。私は結局、1度もドームへ行くことができなかった。同僚たちは「社内野球をさぼりやがって」という眼で見ていたが、私はただ北海タイムス時代の仲間たちのことを考えて辛い気分になっていたのだ。

 もう一本、私の胸に流れ続ける“川”は北海道大学柔道部という名の川である。
 中日新聞社に移った2年後、私は大切な後輩を失っていた。北大柔道部で私が4年生だったときの1年生、Y君である。彼は5年連続最下位の泥沼に喘いでいた私たちが悲願とした七帝戦優勝を、北大に12年ぶりにもたらした主将である。しかし優勝を遂げ、引退した後、心のバランスを崩して自死した。
 さらにその1年後、今度はY君の同期である中井祐樹君(現在は日本ブラジリアン柔術連盟会長)が右眼を失明するというアクシデントに遭った。古い格闘技ファンなら誰でも知るヴァーリ・トゥード・ジャパン(VALE TUDO JAPAN)オープン1995のワンデートーナメンである。彼は1回戦で当たったジェラルド・ゴルドーから反則のサミングを受けて右眼を失明し、総合格闘家を引退せざるを得なくなった。

 私は悔いていた。あらゆる事に。何より私という存在そのものに。そんな自分を打擲するように何度も繰り返し観たのが『リバー・ランズ・スルー・イット』である。観て観て観続けて、傷口に溜まった黒い血を出し切ろうとした。この映画の原作者ノーマン・マクリーンは、弟を失った青春時代を贖うのに74歳でこの作品を書くまで長いあいだ苦しんだ。私はどうか。マクリーンが遺したこの映画を観ることによってマクリーンの苦しみをトレースし、流されてきた川からいま漸く岸辺に辿り着いたところだ。そして水に濡れた身体を寒さに震わせ、岸に座って黒い川面を眺めている。この2つの川が何だったのか、いまだ言語化できてはいない。