原作はダーク・コメディ風
アカデミー賞国際長編映画賞を受けたジョナサン・グレイザー監督の「関心領域」が一般公開され、話題を呼んでいる。
アウシュヴィッツ強制収容所所長(司令官)ルドルフ・ヘス一家の”平凡な”暮らしを描きだす。壁一枚隔てた隣には、ユダヤ人がガス室で虐殺されてく収容所があり、焼却炉の煙が立ち昇り、悲惨な叫び声が響いてくる。囚人らの発するイディッシュにはあえて日本語字幕を付けていないので(*試写時)、この言語を解さない(私も含む)耳には、音が不穏さを醸しながらも意味を持たず通過していくだろうと思った。まさにヘス一家の耳にそうであったように。
ヘス家の邸宅には妻が丹精した庭があり、草花が咲き誇り、友人や子どもたちが集まってピクニックをする。隣の収容所で起きることは、まるで彼らのzone of interest(関心や利害の範囲)にない。
子どもたちと川で泳いでいたヘスが狂ったように水から上がる場面や、「リラ」の茂みの扱いを指示する場面、夜中にリンゴを置きにくる少女のモノクロ場面、ある人物が嘔吐する場面など、要注意の箇所が随所にあるが、映画については別途書くとしよう。
さて、この映画の原作となったのが、イギリス作家マーティン・エイミスの『関心領域』(北田絵里子訳、早川書房)だ。こちらも傑作だが、映画とは別作品と思ったほうがいいと思う。
衝撃的なのは、この凄惨きわまる内容をエイミスはダーク・コメディのような形で書いていることだろう。悲劇はシリアスで重く、喜劇は滑稽で軽いとみなされ、喜劇は悲劇の下位に置かれることがあるが、ナチスとその収容所が行ったことのおぞましさは、tragedyとして書かれることの許容範囲を超えている。「作者あとがき」も読むに、異様なものを異様なものとして書いた結果、このような形になったのだと思う。
エイミスの『関心領域』には、思わず笑ってしまう部分はあるものの、読者の気持ちを煽ったり、揺さぶったり、引き寄せようとしたりするところがまったくない。これはジョイスの言う「真の芸術」の条件に合致するけれど、もっぱら共感ベースで本作を読もうとすると、「登場人物のだれにも共感できませんでした」というカスタマーレビューになってしまいそうだ。
3人の語り手、視点で異なる「事実」
映画と共通する主要人物は、収容所司令官のパウル・ドル少佐(映画のルドルフ・ヘスに相当)と妻のハンナぐらい。構成はきわめて端正で、全体が6章+後日談に分かれ、3人の語り手が交替で出てくる。ブナ・ヴェルケ(合成ゴム工場)勤務の連絡将校アンゲルス・トムゼン中尉、前述のドル司令官、そして同胞らの遺体の処理をさせられる「ゾンダーコマンド」のユダヤ人シュムル・ザハリアシュ。
トムゼンは総統秘書の甥という強みもあり、自分の魅力に絶対的自信がある。いわく、「そういうおれは? 背丈は百九十センチ。髪は霜を思わせる銀色。フランドル地方の滝のような鼻、折れ目のある尊大な口、形のよい好戦的な顎先。〈中略〉これだけ揃った、時と場所に適した魅力を完成させるのが、極北生まれのおれのコバルトブルーの瞳だ」
鼻白んで軽く笑ってしまうだろう。エイミス流のコメディだ。この女たらしの彼が稲妻に打たれたごとく一目ぼれするのが、ドル司令官の妻ハンナである。庭の作り方を教えてほしいなどと言って、彼女に近づいていく。
ふたりは心を通わせ、ハンナはトムゼンに夫にはないものを見出す。ナチスの人種選別思想とユダヤ人撲滅作戦への反感を募らせていくハンナは彼に、ある人物たちの消息についての調査を依頼する。
2人目の語り手、収容所司令官ドルはじつは弱い人間だが、弱いゆえに恐ろしく「面目」にこだわる。魅惑的で聡明な妻に疎まれ気味なのを薄々感じているからこそ、寝室で妻の体に強引に「押し入」ろうとするのだ。彼はつぶやく。
「わたしは正常な欲求を持った正常な人間なのだから。わたしはあらゆる点で正常だ。だれもこのことをわかっていないようだが。/パウル・ドルはあらゆる点で正常だ」
これだけ正常、正常と連呼せざるを得ない時点で、なにかが異常である。ドルは妻とトムゼンの親密な気配に気づき、嫉妬に駆られる。その個人的な復讐の歩みが、収容所の大量虐殺と隣り合わせで描かれていくのだ。
3人目の語り手、ゾンダーコマンド班長シュムルの語りは2人よりだいぶ短いものの、もっとも客観的に収容所の実態を物語っている。班員の多くは、「最初の十分で気がふれるか、慣れてしまうか」だと言うが、しかし彼自身は慣れることも気がふれることもなく、望みを捨てずに生きつづけている。生き別れになっている妻の救済と引き換えに、やがてドルから非道な任務を押しつけられる。
3人それぞれの視点で語られるため、ものの見方だけでなく、事実とされるものにも齟齬が生じる。いちばん滑稽な食い違いは、ドル司令官が目の下にこしらえる「黄緑色」の痣の件だろう。しかし少佐の面子を守るために、少なくとも3人の人間が犠牲になるのだから、滑稽では済まされない。
苦しみは相対的なものか?
整然と進んでいく本作の構造的特徴のひとつは、異なる位相の並置だ。たとえば、ドルは双子の娘たちにも鬱陶しがられているが、娘シビルの背後から忍び寄って、笑いながらハグとキスをしたりする。シビルがいやがって、「わたし、もうじき十三歳になるんだよ、お父さん」と押し止めようとすると、「”愛国心”という言葉の意味を知っているか、シビル?」と、家族愛を全体主義的な理念にすり替えて抑圧しようとする。
この家庭内の一見他愛ないシーンのすぐ次に接続されるのが、ゾンダーコマンドの作業のようすだ。「とことん冷淡に黙々と、おぞましい仕事に取り組む。厚みのある革のベルトを使って残骸をシャワー室から死体保管庫(ライヒェンケラー)まで引きずっていく。ペンチとのみで金歯を引き抜き、裁ちばさみで女性の髪を切り取る。イヤリングや結婚指輪をもぎ取る。そのあと滑車装置に積みあげ(六、七体ずつ)、口をあけた焼却炉まで持ちあげる」
家庭内のハラスメントと、収容所での大量虐殺……。妻や娘にとっては、家父長からの抑圧の傷は浅くないだろう。ここで――本書終盤のある議論の言葉を借りれば――「苦しみは相対的なもの」か否か? という問題が出てくる。一方の人物は、苦しみは他人と比べて計るものではないと言い、もうひとりは相対的なものだと言う。いくらナチス側の人間が辛かったと言っても、髪と体重の半分を失ったり、両親を殺されたりしたか? と。本作中、将校たちの内面に対して「苦悩」や「葛藤」など言葉が使われることはあるが、その苦しみや痛みが生々しく書かれることはない。
エイミスはこうして将校たちの日常と、収容所での日々の作業をなんの高低差もつけずに並置することで、様々なことを問いかける。ここも、映画と異なる点だ。映画はユダヤ人の視点を一切排することで、第三帝国とそこに与していた人びとの巨大な無関心、無感覚、無神経さを浮かびあがらせたが、原作ではユダヤ人側の視点も提供されており、ナチス将校たちはいっそう悪者、愚者の陳列台に晒されるようにして描かれることになる。
一方、ドルたちの目から見ると、シュムルらは感情のない動物のように映る。ドルは自分にとっては「面目は生きるか死ぬかの問題にまさる」が、「ゾンダーどもは〈中略〉面目などは捨て去り、獣の、もっと言えば無機質の欲望を持ちつづけている。”生存”は惰性であり、やつらは惰性を断ち切ることができない」だけなのだと言い放つ。この人間の、どこに人間性が残されているのか? と、ぞっとさせるくだりだ。
油断のならない笑い
映画「関心領域」も、観客が登場人物に自分を重ねられない造りになっていて賛否あると思うが、この異化的描出方法は原作の時点から意図されたものだろう。題材はまったく違うが感覚的に近い映画として、アニエス・ヴァルダ監督の傑作「幸福(しあわせ)」などが思い浮かんだ。明度の高い画面上で淡々と展開していくのは、ある男のある男の視点のみを通した幸せの実現だ。時にわざとらしいまでにのどかな音楽が流れ、美しい草花に彩られた人工的な画のなかで、この男は心ないモンスターに見えてくる。だが、その怪物のなかにひとは自分と似たなにかを見出して慄然とするのだろう。
あるいは、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』でもいい。作者は密林の奥地で生きるヨーロッパ人と先住民、どちらも異様なもの、異質なものとして提示ながら、しかし見つめていれば自分も彼らと人間性を共有しているのを感じる、と語り手に言わせている。
ドルもトムゼンもモンスターだ。アウシュヴィッツでの彼らの行動には吐き気を覚える。しかし日常場面におけるトムゼンのおごりや、ドルの見栄を「わかる」と思ってしまう瞬間もあるだろう。フィクションの読者は、作中人物に共感(シンパシー)は持てなくても、洞察的理解(エンパシー)をもって自己を投影することは可能なのだから。
これを、本書解説者の武田将明は「エイミスの描く人物や世界の滑稽さに笑い呆れる読者も油断してはならない。嘲笑している対象は自分自身かもしれないのだから」と、鋭く言い表している。
映画に引き継がれた「否定的エウレカ」
だが、エイミスの思索はここで終わらない。本書の何箇所かに出てくる象徴的な表現がある。たとえば、死んだ目をして働くシュムルにドル司令官はこう言う。
「これが人間の姿か」
言うまでもなくここで想起させられるのは、アウシュヴィッツからの生還者であるイタリア作家プリーモ・レーヴィの『これが人間か』(竹山博英訳、朝日新聞出版)だ。収容所の環境のなかで人間性が壊死を起こしていく体験と、それを止めようとする精神の抵抗が克明に記された。
エイミスは『関心領域』に究極の悪を書くにあたり、膨大な資料を渉猟したという。そのなかからレーヴィの言葉が引かれる。
「おそらく、(収容所で)何が起こったのか理解することはできないし、ましてや理解すべきではありません。理解することは正当化することだとさえ言えるからです。説明させてください。計画や人間の行動を”理解する”ということは、それを”身の内に取りこむ”こと、〈中略〉その立案者の立場に身を置き、その立案者に共感することを意味します」
理解イコール共感ではないと思うが、「身の内に取りこむ」ことさえしてはいけない絶対的な悪というものは存在するのかもしれない。本連載2023年7月の回で、ヒトラー暗殺未遂者たちが残忍きわまる方法で絞首刑に処される小説について書いた。このポール・ウエストの作品に対して、J.M.クッツェーは自分の代理的主人公に、そのような究極の悪を書くという闇へ降りていった作家は精神的に無事なまま帰還できるのだろうか? と問わせた。
「自分には理解できない」ということを発見する――これをエイミスは「否定的エウレカ」と呼んでいる。「第三帝国の特異性の一部は、わたしたちの接触や理解を寄せつけない、その強力な動かしがたさにある」と。
エイミスがドルやトムゼンを一貫して異質なものとして描く理由はここにある。この点を映画版はしっかり受け継いだと言えるだろう。
今月は『関心領域』に圧倒された感もあるが、本作の余韻のなかで強い存在感を発揮した小説に触れたい。赤松りかこ「グレイスは死んだのか」(新潮4月号)だ。バックナンバーになってしまうが、近日単行本化されるようだ。
暴力を恃んで馬や犬を調教してきた、どこか狂った男が主人公である。「調教はその枠に、何の感情も持たず、自分から入っていくようにすること」と嘯くが、まるでアウシュヴィッツのドル司令官たちの言い種のようだ。屈辱と獣との交感のはてに、なにが死に、なにが残ったのか。生き物としての人間の洞(うつろ)を照らしだす秀作だ。