鴻巣友季子の文学潮流(第31回) 朝井リョウ分析の精度に慄然とする「イン・ザ・メガチャーチ」
「~活」「~女子」「~バイト」など、気軽な感じの言い回しにしてノーマライズ(標準化)し、婉曲化・穏健化・親近化する言葉遣いは、すっかり定着している。
こういう略語や通称は――パパ活、いただき女子、闇バイトなどにも見られるように――その実態を包み隠しつつ親しみを感じさせる機能もあり、私にジョージ・オーウェルの『一九八四年』でディストピア政府がつくりだした新言語「ニュースピーク」をほんのり想起させる。
近未来のオセアニア国政府は国民をたやすく操るために平易な言語を開発し、新たな機関を設置したのだ。たとえば、報道・教育などを牛耳る真実真理省、戦争にかかわる太平和平省、法と治安を維持する友愛親愛省、経済活動の責任をもつ豊作豊年省といったポジティヴな省名と裏腹に、各省は戦争を遂行し、文書と歴史を改ざんし、人びとを弾圧、拷問、処刑している。
その禍々しい実態の目くらましとして、これらの省はさらにフレンドリーで愛らしい通称を与えられている。Minitrue(しんしん省)、Minipax(へいへい省)、Miniluv(あいあい省)、Miniplenty(ほうほう省)といった具合に。省名と略称は私の試訳である。
さて、朝井リョウの『イン・ザ・メガチャーチ』(日経新聞出版)を読むと、「推し活」という楽し気な略称の裏にも、巨額のお金を搾取する機構と遠大な思惑が交錯する巨大な闇の存在を疑いたくなってくる。版元の言葉によれば、「ファンダム経済を舞台に『今の時代、人を動かすものは何なのか』という問いに迫る長編小説」だ。
3人の主要人物を据えた多視点群像劇である。その一人は、レコード会社の経理部に左遷されたらしき久保田慶彦(47)。離婚後、大学生の娘とは定期的にオンライン通話をしているが、最近は話すこともあまりない。孤独をかみしめているところに、アイドルグループを扱う花形社員で元同僚の橋本から助力を要請される。オーディション番組から生まれた男性グループの運営戦略にかかわってほしいというのだ。
2人目は、久保田の娘の武藤澄香(19)。幼い頃から父の影響で洋楽や洋画を好んできた。アニメや国内アイドルの話ばかりしている友人たちとは違うという意識を持ち、留学を目指して語学系の大学に入ったものの、最近は周囲についていけず、留学目的もわからなくなってきている。そんなときある新人アイドルに出会う。
3人目は、藤見倫太郎という2.5次元ミュージカル俳優の「推し活」に勤しむ契約社員の隅川絢子(35)。のめりこむ一方で、自分の活動の異様さを客観視する目も持っており、倫太郎の自殺事件を機に、ある女性の唱える反日勢力陰謀論に引きこまれていく。倫太郎はその「真実」に気づいていたために消されたのではないか?と。
なぜ人びとは時間とお金と労力を注ぎこみ、idolを「崇拝」するのか? 朝井リョウの分析の精度に慄然とさせられる。
橋本とIT業界出身の国見が、今後のファンダム構想を話しあうくだりには、とくに震撼させられた。熱量の低い100万人のファンより、熱量の高い1万人のファンを獲得するのが目標という。それはファンというより信徒に近く、そのイベントは何千人という信者が集まる「メガチャーチ」*(平均の信徒数が2000人以上のプロテスタント教会。ライブ仕立ての礼拝はコンサートさながらの盛り上がりとなる)を彷彿とさせる。
実際、本書では信徒生活と推し活、信徒獲得とファン拡大のマーケティングは、文字通りパラレルの関係に置かれているのだ。朝井はあるくだりで、この二つのトピックを空白行や話題転換もなしに次々と並置させ、いかに性質が似通っているかを見事に示してみせる。ここは本作のナラティヴにおける白眉だ。
橋本と国見らは「共感」の強烈な作用についても熟知していて利用する。ファンのなかでも「最も共感能力が高く、自他の境界が曖昧で、視野を狭めやすい気質のファン層を炙り出し、より先鋭化させる」という戦略をとる。ファンのほうも視野を狭めてなにかに夢中になっているほうが「楽」なのだと。「ずっと我に返ったまま生きるにはこの世界は殺伐としすぎていますし」と国見は言う。
過酷な現実を忘れているための麻薬のような働きだ。それを摂取している間は多幸感や高揚感があるが、覚醒すると寒々とする。また摂取するためにお金を注ぎこむという中毒性も共通している。
久保田は「なんか依存症に近い話だな。物語中毒っていうか」と言い、国見は当たり前のように、「神のいないこの国で人を操るには、”物語”を使うのが一番いいんですよ」と言って微笑む。
この連載の第25回でとりあげた『NEXUS』で著者のユヴァル・ノア・ハラリは物語を人類史上初めて現れた「メディア」であると解説していた。
7万年ほど昔、ホモ・サピエンスはそれまでの人類種にはない能力、すなわち異なる生活集団同士が相互協力するという能力を発揮しだした。これを可能にしたのが物語なのだと。脳構造の革命的な変化があり、それによる言語能力の発達によって、サピエンスは架空の物語を語り、それを信じて深く感動するという習性を獲得したという説だ。
物語があれば、ネアンデルタール人のように個人的な知り合いでなくても協力しあい連繋することができる。同じ一つの物語を知っていればいいのだ。
この物語のなかには、聖書の教えも、政治イデオロギーやナショナリズムも、高級ブランドの神話なども含まれる。物語には多数の差込口があり、多数の人間がそこにプラグインできる。『イン・ザ・メガチャーチ』の橋本たちは、信徒の中央に捧げ置かれるセントラル・コネクターを作っているのだ。「情報を点として置いておいて、信者自身に能動的に解釈させる」という方法が紹介される。
小説は「神なき時代の叙事詩」と呼ばれるが、本作以上にその言葉を体現した小説もない。現代人の必読書と言っていいだろう