鴻巣友季子の文学潮流(第30回) 秋の文学賞ラッシュと世界的なテーマになった「娘の重荷」
ノーベル文学賞の発表が今年も近づいた。
毎年「推し」大会になって申し訳ないのだけれど、もう今年は多和田葉子がいよいよの段階に入っているので、より熱が入る。昨年の受賞が韓国の女性作家ハン・ガンであったため、当分日本には来ないとみなさん思っているだろう。男女交互の授賞になるという俗説もある(つまり、今年は男性)。
とはいえ、近年のアジア文学および日本文学への評価の高まりと、女性作家の全世界的な台頭ぶりを見ると、日本の女性作家の受賞は遠くないと感じる。
多和田のユーモアと言語遊戯、グローバリズムや全体主義、排外主義に抵抗する姿勢はデビュー当時から変わらないが、近年はとくに頼もしい。放射能汚染された近未来の日本を描いたディストピア小説『献灯使』や、ホッキョクグマが自伝を書く『雪の練習生』などのもつ批評性も高い評価を得るだろう。
また、今年はこの九月に、コロナ禍を挟んで書かれた三部作『地球にちりばめられて』『星に仄めかされて』『太陽諸島』の最終巻の英訳Archipelago of the Sunがニューダイレクションズという独立系ながら超有力翻訳出版社から刊行されている。
英訳者はマーガレット満谷だ。2018年に全米図書賞翻訳部門をThe Emissary/The Last Children of Tokyo(「献灯使」)で受賞し、2022年にもScattered All Over the Earth(「地球にちりばめられて」)で同賞最終候補になっている黄金のタッグである。
要するに、作品の質に加え、賞の傾向や翻訳者や版元などもそろっている。そこへもってきて、多和田はこの9月にドイツの女性詩人ネリー・ザックス*(1966年にノーベル文学賞受賞)にちなんだ文学賞を受けているし、アメリカのノーベル文学賞などと言われる国際文学賞の最終候補にもなっている。この賞の発表も10月だ。
そう、秋は文学賞のラッシュだ。ブッカー賞、全米図書賞、フランスの四大文学賞であるゴンクール賞、フェミナ賞、メディシス賞、ルノードー賞など、すべて11月に受賞が発表される。このなかで外国語(翻訳)作品も対象とするのは、国際ブッカー賞(発表は6月)、全米図書賞、フェミナ賞、メディシス賞だ。どの賞もいつ日本作家の受賞があっても不思議ではない。
目下は、市川沙央の『ハンチバック』(ポリー・バートン英訳)が全米図書賞翻訳部門のロングリストにも入っている。ちなみに、同賞の昨年の受賞者は楊双子『台湾漫遊鉄道のふたり』の英訳(金翎訳)だ。
今回の全米図書賞翻訳部門のリストはいたく充実しているので、そのなかから、市川沙央とネージュ・シンノの新刊を紹介しよう。どちらも全世界的なテーマ「娘であること」を扱う自伝的要素をもつ作品である。
市川の『女の子の背骨』(「オフィーリア23号」併録、文藝春秋)の表題作は、「ハンチバック」の文字通り姉妹編とも言える。「ハンチバック」の語り手・井沢釈華は市川と同じ筋疾患先天性ミオパチーという病気を患っていたが、「女の子の背骨」の主人公ガゼルも側彎矯正コルセットを付けて暮らしている。グアムに旅行にいったり、ビーチボールで「壁打ち」ができるぐらいの体力はあるが、進行性の病のようだ。
7歳上の姉「Iちゃん」が登場する。彼女のほうが症状が重く、5年前に「ぶっ倒れた」ため、寝たきりで胃ろうに頼る生活になったが、その後、誤嚥を防ぐ喉の手術をしたことで経口の食事が可能になった。しかしそれと引き換えに発話能力を失ったのだった。
ガゼルはグアム旅行に行く際にも、一日一通ぶんの手紙を「お姉ちゃま」宛てに書き、昭和的なファンシーグッズを同封して置いてくる。旅行先でボール遊びをしながら彼女は思う。姉と一緒にいることは、姉の<できない>を見ることであり、自分の<できる>を姉に見せつけることだと。そして、「日本で待っている姉の前に二度と、姉より動ける体を持って帰らないほうがいいのだろうか」と自問するのだ。
市川も幼い頃は「きょうだい児」*(重い病気や障害をもつ兄弟姉妹がいる子ども)だったことを明かしている。市川は幼少時から姉のケアラーの役割を担い、14歳からは自らも人工呼吸器が必要な医療ケア者となったと言う。
ガゼルは「何でもいいから何かを撃ち殺したい」とつぶやく。その言葉は空疎であるがゆえに重く、また虚ろであるがために澄んでいる。
フェミナ賞など数々の賞を受けたシンノの『悲しき虎』(飛幡祐規訳、新潮社)は実録的な作品であり、ノーベル文学賞作家アニー・エルノーは本書をこのように評した。
「この本を読むのは目を開けたまま深淵に落ちていくようなものだ。子供が長年大人に凌辱され続けるとはどんなことかを、読者は目の当たりにする」
登山ガイドの義父に性的虐待を受けた少女時代が回顧される。その忌まわしい行為はシンノが9歳頃に始まり、12歳になると性交を強要され、それが10代半ばまで継続したのだ。
義父は幼い娘に、束縛はおまえをより自由にするためだ、ひとに話しても理解されないから話すな、続けていればセックスがしたくなるなどと言って支配し、娘に逃げ場はなかった。
本書のタイトルはウィリアム・ブレイクの詩「虎」を想起させるが、文中にもその一節が出てくる。「虎よ、虎よ、夜中の森に/ぎらぎらと燃えさかる」
こんな恐ろしい生き物をだれが創造したのだろう? やがて娘と母は共同で加害者を告訴する。しかしシンノは本を出した後も、「セラピーとしての創作などというものは信じない」と述べている。
続けてこの秋注目の自伝を紹介する。私は近年インド文学に目を向けているのだけど、『小さきものたちの神』で知られる女性作家アルンダティ・ロイの新作「母メアリがやってくる」(Mother Mary Came to Me、未邦訳)の母娘関係がすさまじい。
アルンダティの実母は抑圧的な気分屋で、食器を投げつけ、罵倒し、息子の成績表に怒って物差しが折れるほど折檻したと言う。アルンダティは成績は褒められたが、「私はいまでも自分が褒められると、隣の部屋でもの言わぬだれかが打ち据えられている気がするのだ」とトラウマの苦しみを綴っている。
この家では針金ハンガーの使用は禁じられていた。なぜなら、母によれば、それを使ってアルンダティを堕胎しようとしたが、失敗したからだと言うのだ。これ以上はここに記さずにおこう。
母はのちの名門女子校の設立者でもあった。文学を愛し、インドの最高裁を説き伏せて、キリスト最後の7日間を描いたロックオペラ「ジーザス・クライスト・スーパースター」を上演した学生への有罪判決を覆し、女性に相続権を持たせない法律を撤廃させたのも彼女だ。Mother Maryは聖母マリアにも掛けているだろう。
この猛母の下に育ったアルンダティも強い人間になった。現在は強烈なパレスチナ擁護派でもあり、「(ガザへの攻撃が続くかな)沈黙するなら、攻撃に加担していることになる」と公言しており、反核運動家でもある。
さて、ノーベル文学賞に話をもどすと、このわずか4年のうちに国際ブッカー賞2回も出したインドは要チェックだ。2022年にギータンジャリ・シュリー(ジェニファー・クロフト英訳)と、2025年にバヌ・ムシュタク(ディーバ・バスティ英訳)というマイナー言語での受賞だった。
地域で言えば、ラテンアメリカも私はずっと推しているが、授賞するなら女性作家にお願いしたい。スペインも、スペイン語圏も、家父長制の伝統と男尊女卑の傾向の強い国が多いが、いまラテンアメリカを含むスペイン語文学を盛り上げているのは女性作家だからだ。
『赤い魚の夫婦』などで知られるメキシコのグアタルーペ・ネッテル、アルゼンチンのスパニッシュ・ホラーの旗手マリアーナ・エンリケス、サマンタ・シュウェブリン、そしてビューリツァー賞受賞で注目されているメキシコのクリスティーナ・リベラ・ガルサ。
エンリケスは、日本では闇の力をもつ<教団>と異能の父子を描く『秘儀』(新潮文庫)が宮崎真紀訳で刊行されたところだ。また、ガルサの受賞作「リリアナの不屈の夏」(未邦訳)は、妹を殺された女性の回想録で、フェミサイド(女性殺し)の社会的構造を探りだし、声を奪われた女性の物語を奪回しようとするものである。
最後にヨーロッパ。いいかげん授賞してほしい重鎮作家が、ルーマニアのミルチャ・カルタレスクと、ハンガリーのラースロー・クラスナホルカイだ。カルタレスクは欧州の主要な文学賞はもとより、最近ではSolenoidというSF要素と幻想みのある思索的な自伝小説でダブリン文学賞を受け、国際ブッカー賞のリストにも名前を連ねた。Solenoidのポストモダンな面白さは日本うけすると思うし、ぜひ翻訳されてほしい。
2020年以降、国際文学賞の候補者・受賞者を見てつくづく思うのは、英米の世界文学はいまや小出版社が支えているのだということだ。これは大概日本にも言えることで、ノーベル文学賞が発表されるとにわかに活気づくのは、大手ではなく、翻訳を主戦場にしている中小の版元だ。
「いま本当の出版は底辺で起きている」というイギリスの某出版社CEOの言葉がある。
しかし影響力ではもうぜんぜん底辺ではない。今年の国際ブッカー賞のロングリスト13作中11作は独立系の版元だったし(超大手は『ハンチバック』の英訳を出したペンギン・ランダムハウスUKの1社のみ)、全米図書賞翻訳部門のロングリストも同じくで、10作中7作が独立系だ。
これらの小出版社は一匹狼(マーヴェリック)などと称されて畏敬され、いまやマンハッタンのビッグファイブ*(巨大コングロマリット出版五社を指す)も霞みかねない”大物”ぶりを見せつけている。
秋の文学の祭典シーズン、もうすぐ幕が切って落とされる。