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もれる生霊 千早茜

 最寄り駅のスーパーで買い物をしていた時のことだ。豆腐の棚の前で油揚げを選んでいた。隣ではお婆(ばあ)さんが同じく豆腐の棚を見つめている。と、私たちの後ろを通りかかった大柄な男性が爆発音のようなくしゃみをした。「ああ、びっくりした」と、お婆さんが首をすくめた。「なにもあんなに大きなくしゃみをしなくたってねえ」と、ため息交じりに言う。周りを見まわす。私たちしかいない。「そうですね」と私は相槌(あいづち)を打った。すると、お婆さんは驚いたように私を見て、ぎこちない笑みを浮かべて会釈をすると、そそくさと豆腐の棚の前を離れてしまった。また間違えた、と思う。

 こういうことが時々ある。近くにいる年配の女性が「あら、高いわね」「これとどう違うのかしら」などと突然喋(しゃべ)りだす。私以外、誰もいない。無視しては悪いな、と思い返事をするも、驚かれるか、曖昧(あいまい)な反応しか返ってこない。私に返事は求められておらず、おそらく独り言なのだ。

 年配の男性がぶつぶつ言っていることもあるが、怒ったり不機嫌そうにしていたりすることが多く、怖くて私の方から離れてしまう。年配の女性がおっとりと呟(つぶや)くと、どうも捨て置けない。旧知の編集者に相談すると「一人で過ごす時間が長いと思ったことが口からもれちゃうんですよ、自覚なく。私もそういうことありますよ」と言われた。半信半疑でいると、友人が遊びに来てトイレにたった。茶や菓子の用意をしていたらトイレの方から話し声が聞こえた。電話かな、と思ったら友人が手ぶらで戻ってきた。「なんか喋ってた?」と訊(き)くも「いや」と首を横に振る。その後も、私が台所へ行ったりすると、友人は独り言を口にしていた。喋っているよ、と言っても、そんな覚えはないと言い張る。怖いと思いつつ、我が身の不安も感じた。私も一人でいる時間が長い。どこかで思いをもらしてやしまいか。それが素直な発露であればあるほど危ない気がする。自覚なくもらす言葉はなんだか生霊めいていて怖い。=朝日新聞2024年6月5日掲載