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「奴隷制廃止の世紀1793-1888」書評 抵抗と政治的決断の複雑な過程

評者: 隠岐さや香 / 朝⽇新聞掲載:2024年07月06日
奴隷制廃止の世紀1793-1888 (文庫クセジュ) 著者:マルセル・ドリニー 出版社:白水社 ジャンル:ヨーロッパ史

ISBN: 9784560510643
発売⽇: 2024/03/29
サイズ: 17.6×1.1cm/160p

「奴隷制廃止の世紀1793-1888」 [著]マルセル・ドリニー

 奴隷制が廃止されていく過程のことは意外と知られていない。フランス革命における奴隷制廃止や1860年代アメリカの黒人奴隷解放など、一部地域の出来事や断片的な日付はよく知られている。だが、ナポレオンが植民地での奴隷制を復活させたことや、南米では1880年代まで奴隷制が残っていたことなどはあまり知られていない。
 本書はこの奴隷制廃止という1世紀近くを要した複雑な過程について、欧米およびその植民地全体を視野に入れて記述した書物である。奴隷制廃止はしばしば、「人権思想の普及」などの理念に基づく説明、あるいは「奴隷労働は生産性が低いので市場経済の普及とともに淘汰(とうた)された」など経済に着目した説明がなされがちである。
 だが、本書が描き出すのはむしろ、奴隷たちの根気強い抵抗運動とそれに対峙(たいじ)した側による政治的決断の重要性である。とりわけ、史上初の奴隷制廃止となったフランスの植民地、サン・ドマング(後のハイチ)の事例では、革命の混乱状態に乗じた蜂起という奴隷たちの有無を言わせぬ直接行動が決定的であった。
 本書の後半は複数の地域での出来事や残された課題を列挙する形で駆け足の記述になるが、奴隷を解放したはずの西洋諸国が残した課題は的確に語られている。列強は植民地侵略をやめず、奴隷が支えてきた経済構造を維持しようとした。ゆえに元奴隷に職業選択を制限する施策や、旧植民地の経済構造を歪(ゆが)める方策が取られ、後世に禍根を残したのであった。
 著者のマルセル・ドリニーは2021年に逝去したが、晩年は奴隷制の歴史を伝えるべく一般向けに書物を複数著していた。訳者も指摘しているように、奴隷解放に女性が果たした役割についての記述が薄いなど、欠けている視点はある。だが、1世紀をかけて世界各地で奴隷制廃止が定着していく様を簡潔にまとめあげた著者の手腕は見事としか言うほかない。
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Marcel Dorigny 1948~2021。歴史家。専門は18世紀フランスの奴隷制、奴隷制廃止。パリ第8大名誉教授。