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「地底旅行」岩波少年文庫版訳者・平岡敦さんインタビュー 夏にぴったりな「地下世界もの」の古典

「地下世界」への空想をかきたてる冒険小説

――1863年5月24日ハンブルク。高名な鉱物学者リーデンブロック教授と、彼の甥(おい)で研究助手のアクセルは、古い本に挟まっていたボロボロの羊皮紙を見つけます。そこに書かれた暗号は地球の中心へ行く方法を示したものでした。ふたりは地下世界の入り口とされるアイスランドのスネッフェルス山を目指します……。『地底旅行』は今から160年前の小説ですが、平岡さんは子どもの頃に読んでいましたか?

 小学生のとき、ページをめくるのももどかしいくらいワクワクしながら読んだ記憶があります。現代の科学的知見では“あり得ない話”になってしまいますが、昔は「地球空洞説」と呼ばれるものがありました。僕が子どもの頃の少年漫画雑誌の写真ページでも、地下世界や未確認生物、超常現象などのオカルト話がよく取り上げられることがあって。「われわれが暮らしている地球のどこか奥底に、もうひとつ別の未知なる世界が広がっているのでは」という空想をかき立てられたものです。本書はそういった「地下世界もの」の古典ですね。

オットー・リーデンブロック教授(『地底旅行』より)

――ヴェルヌといえば、潜水艦が実在しない時代に、架空の潜水艦「ノーチラス号」の冒険小説『海底二万里』を書いたことでも有名です。

 『海底二万里』『八十日間世界一周』『気球に乗って五週間』……。自分が夏に読んだせいもあると思いますが、ヴェルヌ作品は “夏休み”のイメージと密接に結びついています。小学生で抄訳版『十五少年漂流記』に出会い、中学生ではじめて完訳版『二年間の休暇』を知ったときは「なんて魅力的なタイトルだろう」と思いました。僕らの夏休みはたった1カ月なのに“二年間のヴァカンス”ですからね。実際は“遭難”のサバイバル生活ですけど “ヴァカンス”と言ってしまうのがすごいなと。

 この『地底旅行』はヴェルヌの作家生活の初期に書かれたもので、比較的短く、はじめて読む人も手に取りやすいと思います。夏休みの1冊としてもぴったりじゃないでしょうか。

暗号の解読から地下に潜るまで

――物語は、リーデンブロック教授が暗号の解読に熱中するあまり、食事もとらなくなり、アクセルも食事抜きに巻き込まれるところから盛り上がっていきます。

 謎めいたルーン文字の暗号文によって、読者も一気に物語に引き込まれる場面ですね。リーデンブロック教授は、科学の研究や新発見のためならどんな犠牲や危険、はた迷惑もかえりみません。暗号が示す場所へ、甥のアクセルを連れて、冒険の旅へ出ることを宣言します。

リーデンブロック教授とアクセルが暮らすケーニッヒ通りの小さな家(『地底旅行』より)

 ところがアクセルは、嫌で仕方ないわけです。地下世界なんて、どうなっているかもわからない。もしかしたら命が危ないかもしれないんですから。恋人のグラウベンに「行きたくない」と訴えたいアクセルですが、リーデンブロック教授の養女でもある彼女は、無謀な冒険を心配するかと思いきや、「学者の甥にふさわしい旅だわ」と落ち着き払っている(笑)。

 恋人に快く送り出され、教授に追い立てられて準備は進み、ついに出発のときは来ます。そして教授とアクセルのふたりは、地下空洞の入り口があるというアイスランドのスネッフェルス山へ……。

 子どもの頃に読んだときはもっと早く火山にたどりつき、すぐ地下世界に下りていったような気がするけれど、大人になってあらためて読むと、古文書に示された噴火口までが長いんですよね。船旅と徒歩の旅が続き、アクセルが何度も「嫌だ、嫌だ」「なんとかここで引き返せないだろうか」と嘆く描写が、地下への緊張感をいっそう盛り上げますよね(笑)。

――途中、無口で頼りになる案内人のハンスが加わります。

 ハンスは寡黙(かもく)で、無駄なことはしゃべらず、何事にも動じず、やるべきことはきっちりやる……。とても頼りがいのある、いいキャラクターなんです。アクセルだけがまったく普通の若者で、その普通さが教授とハンスのキャラクターを際立たせる。語り手をアクセルにしているところが、作家としてのヴェルヌのうまいところでもあります。

玄武岩の壁に囲まれたスタピのフィヨルド(『地底旅行』より)

――アクセルたちは、行く先々でいろんな人に会います。親切な総督、ケチな宿屋の夫婦……。

 辺境の宿屋では、サービスは悪いのに高い料金をふっかけられるといういかにもありそうな話ですね。火山の噴火口へたどりつくまでの過程も、小説のひとつの読みどころです。

――一行はついに火山の噴火口から地下へ。地底には驚くべき光景が広がっています……!

 続きはぜひ読んでいただきたいですが、手に汗握る出来事の連続。挿絵も19世紀に刊行された原書のものなので、あわせて味わってもらえたらと思います。

同時代の19世紀後半を舞台に書かれた物語

――子どものときに読んで一番印象的だったのはどの場面ですか?

 それはやっぱり、地下の真っ暗な世界で迷子になるところでしょうね。小学生だったときも読んでドキドキしたけれど、今回自分で訳していてもやっぱりドキドキしました。

――訳に苦労したところはありますか。

 あえて言うならば岩石の名前などの専門用語がたくさん出てくるので調べ物が多かったところでしょうか。ヴェルヌは博物学的な知識を物語にふんだんに盛り込むので、調べることは必要でした。あと現在の科学的な知識とは少し違うところもあるので、科学知識の歴史や変遷がわかってないと、ヴェルヌが何を言いたいのか、訳していてもよくわからないところがあります。その辺は予備知識を頭に入れてから訳すようにしました。

地下トンネルではアーチ形の天井がどこまでも続いた(『地底旅行』より)

――本作が発表されたのは1864年。当時のフランス語の小説が今も楽しめるのがすごいですね。

 冒頭が「1863年5月24日の日曜日」ですから。本文のそのままの通り、おそらく書かれたのは1863年でしょう。イギリスの化学者ハンフリー・デイヴィ、ドイツの博物学者フンボルトなど、その頃の実在の学者名や科学論争が物語には色々出てきます。

 ヴェルヌが活躍した19世紀後半は、ヨーロッパでは科学技術が急速に進歩し、人々の関心が新しい世界へと広がっていった時代です。特にフランスは、イギリスより産業革命がちょっと遅く、まさに19世紀後半がその時期。科学技術が人間の生活を変えていくという、文明の進歩への楽観的な信頼感がある……。そんな時代の空気が作品の背景にあると思います。

言葉の感覚、村上春樹の小説や昭和の流行歌を見習って

――ミステリーから絵本まで幅広く手がける平岡さんですが、翻訳家になったきっかけは?

 小学生の頃からSFとミステリーが好きでした。大学進学時に仏文科を選んだのは、高校のときにセバスチャン・ジャプリゾのサスペンス小説を読んで衝撃を受け、英米ミステリーとはひと味違う、フランスミステリーの魅力を知ったこともあったかもしれません。

 大学では「ワセダミステリクラブ」という文芸サークルに入りました。同級生や先輩には卒業後に翻訳家や作家、評論家になった人も多く、ミステリー全般に詳しい人がたくさんいました。当時は「早稲田小劇場」の建物1階の喫茶店「モンシェリ」が活動場所。僕は仏文科だったこともあり、自分なりにフランスミステリーを意識して読むようになりました。

 翻訳家になるきっかけとなった1冊が『ロマン・ノワール −フランスのハードボイルド』(白水社、1991刊)です。文庫クセジュ(フランスの学術的な叢書〈そうしょ〉)の中でまだ訳されていないこの本を見つけて出版社に「訳したい」と持ち込んだところ、運よく企画が通りました。戦後のフランスミステリー界に大きな潮流を作った「ロマン・ノワール=暗黒小説」の歴史をまとめた解説書で、当時、日本ではこのような本がまだなかったのです。

 この訳を手がけたことが、その後の自分の方向性を作ってくれたかなと思います。以来、フランス文学の中でも、物語に起伏や展開があって面白いと思うものを訳しています。

――フランス語から日本語へ訳す感覚を磨く上で影響を受けた作家や事柄など、思い当たることはありますか。

 影響と言っていいかわかりませんが、僕が大学を卒業した1979年に『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビューされた村上春樹さんは好きな作家です。受賞作を雑誌「群像」で読んで以来、新作が出るたびにすぐに読んでいます。言葉の選び方が的確で、例えばある感情について語るとき、一つひとつの言葉が文章の流れの中にぴたりと収まっていく感じが、読んでいてとても心地いいんです。彼に限らず、他の作家の作品でも、うまく表現されているなと感じる言葉づかいを見習いたいと思うことはあります。

 あとは、耳から聞く音としての日本語で言うと、松本隆さん、なかにし礼さんといった昭和の歌謡曲の作詞家からは影響を受けているだろうと思いますね。耳からスッと入って人の心に直接響くような、読む人が楽しめる翻訳をしたいと思っています。

――『地底旅行』をこれから手に取る人へメッセージをお願いします。

 僕は翻訳をするとき、芝居を演出するような感覚があります。『地底旅行』ではリーデンブロック教授のユニークな人柄がどんなふうに訳したら伝わるか、彼の口ぶりを考えるのは楽しかったです。どのような口調で訳すかで、人物像の印象が変わってきますから。

 教授はいわゆる、学者バカのような「奇人変人」の面もあれば、甥のアクセルに対してときおり優しい心づかいを見せる、人間的な一面もある。もし実際近くにいたら迷惑だろうけれども、非常に魅力的な人物である教授と、彼に翻弄(ほんろう)されるアクセルのあたふたした感じと、どっしり構えた頑強(がんきょう)な案内人ハンス、この3人の人物像が際立っているところに本書の面白さはあります。

 ヴェルヌ自身が意図してキャラクターが立つような書き方をしているので、それをどれだけうまく日本語にのせていけるか……と思いながら訳していきました。その辺の訳しどころはまずまず成功したのではないかと。

 『地底旅行』はヴェルヌ作品の中でもいろんな人に訳され、さまざまな映像作品になってきました。古文書の発見から始まる冒険譚と魅力的な人物たちを、ぜひ今の時代にもみなさんに味わってほしいと思います。

19世紀の画家エドゥアール・リウーの挿絵(『地底旅行』より)

【特集「今めぐりたい児童文学の世界」の記事より】
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