いつも見る夢と現実の“ずれ”
――『新月の子どもたち』は、「レイン」という少年が“自分は死刑囚で、独房にいる”と気づく場面からはじまります。そこは「トロイガルト」という国。外に見わたすかぎりの草はらと、遠くに建物をとり囲む高い柵が見える。強烈な印象を与えるはじまりです。
この物語を書こうと思うずっと前、小さいころから何度も見ていた夢がありました。山の上に施設があって、金網で囲まれたそこに自分がいる。夢では「いつも来るところだ」と思っていて、目が覚めると「またあの夢だ」と思う。
いつから見ていたのか思い出せないくらい古い記憶で、いまだにそのことを考えるとぼんやりします。“いつも”見ていた気がするけど、実際は、2、3回かもしれない。だけど夢のなかでは「ずっと、ここにいるんだよな」と思うのです。
それに、現実の時間の感覚と、夢での時間の感覚の“ずれ”が、いったいどうなっているのか……昔からずっと不思議でした。いつかそのことも書いてみたいと思っていました。
――トロイガルトでは背中にちいさな羽が生えた青錆(さび)色の熊、ハネクマたちが施設の看守をしています。朝の点呼で、ハネクマは囚人に名前を言わせ「おまえは ○○(名前)だ」「そして おまえは しぬ」と順々にくり返します……。いったいどんな世界だろうと思って読んでいると、第2章の舞台はふつうの小学校に変わりますね。
そうですね。小学5年生の「平居 令(ひらい れい)」が、学校の教室で友達に起こされて目が覚めます。夢の中で「レイン」だったけれど、目覚めた瞬間、令はどっちが夢でどっちが現実なのかわからない。
「令」本人も「レイン」とのつながりがわかっていないし、読んでいる人もふたつの世界はなんの関係があるんだろう……と思いながら読んでいくことになると思います。
もうひとりの、本来の自分を探す
――声変わりや急な眠気など、成長期の体の変化にとまどう令。校内の合唱コンクールがせまる中、クラスの女子に声をからかわれてうんざりします。
声変わりって、自然に変わる子もあまり変わらない子もいますし、一方で、一時的に声がかすれて出にくくなる子もいる。大人になってみればほんの短い間ですけど、声を出せなくなる子には大きな出来事ですよね。
――合唱コンクールを歌うふりでやりすごそうとする令ですが……。
令は、そもそも自分の望みをなんとなくあきらめている子です。例えば小学2年生のときに「いつまでもやってたって、しょうがないだろう」とお父さんに言われて聖歌隊をやめてしまう。塾に行きはじめるのも、お父さんに言われてからの自然な選択で、“意思”や“個性”のようなものがあまりはっきりしていない子なのです。でも、すごく特別というより、むしろよくいるタイプかもしれません。
ふたつの世界は共鳴しあう
――トロイガルトのレインというのは、令が夢で見ている自分。夢と現実を行ったり来たりしながら物語は進んでいきます。
「カットバック」という、映画や、英米のミステリー、冒険小説によくある手法が昔からすごく好きで。ふたつの世界とストーリーがそれぞれ交互に展開しながら、重なっていくという……その重なり方にはいろんなパターンがあるんですけど、ノートに書き留めて研究するくらいで、自分でもいつか試してみたいという気持ちがもともとありました。
――夢と現実、ふたつの世界を描いた版画の挿絵が美しいです。
花松あゆみさんの絵はどれもすばらしくて、物語を表現するのにとても助けられています。実は、トロイガルトの場面は青で、現実の世界は黒で描かれているんですよ。第3章の、朝の場面は、とくに気に入っています。草はらの周囲に畑があり、人間だけでなく動物のようなものも混じっているのがわかりますね。いいなぁと思う絵です。
人生に大切な3つのもの
――みんな死刑になるのがふつうのトロイガルトで、「わたしは しなない」と看守のハネクマに言い返す少女「シグ」を見たレインは、彼女を助けたいと思うようになります。一緒に脱獄を考えてくれる年上の「ゆずりは」にも出会います。
物語を構想したときのノートを読み返してみると「ドリームタウンの3人」という仮のタイトルをつけています。
僕は「オズの魔法使い」がすごく好きです。少女ドロシーが竜巻に巻き込まれ、落ちたところは魔法の国。えらい大魔法使いに家に帰してもらおうと旅をする途中で、臆病なライオン、心をなくしたブリキのきこり、脳みそが欲しいカカシに会います。この物語がアメリカで書かれた時代、作者ライマン・フランク・ボームが子どもたちが生きていくのに必要だと考え、伝えたいと願ったのが「勇気」「愛」「知恵」でした。
もしそれを、現代に置きかえるとしたら……。子どもたちに必要で、彼らが自分の手に取りもどしたいテーマがあるとすれば何だろうかと考え、3人の登場人物にたくしました。それがなにかは、読んでいただけたらと思います。
何にモヤっとしているのかわからない子のために
――出口のないトロイガルトで「ほうっておいても、おのずから死刑になっていく」囚人たち。つまりそれは「夢をあきらめて大人になっていく」ということ……。本の中で令の同級生が言う、こんな台詞(せりふ)があります。「大人になるって、ほんとの自分をどんどん殺していかなきゃいけないっておもう。ぼくはそういうのはいやなんだ」と。
子どもたちは「夢」や「意思」がないわけじゃない。でも優しくて気配りができる子ほど、いろいろなことをあきらめてしまう。あるいは、あきらめられなくて苦しむ。周囲の期待を裏切っちゃいけないとか、親を嫌な気持ちにさせちゃいけないとか、配慮する気持ちのほうが強くなってしまうのでしょうね。勘違いされやすいのですが、この物語でいう「夢」は、「将来の職業」のようなことだけではない。そういう夢は、かならずしも、あってもなくてもよくて、もっと深いところにあるなにかだと考えています。
――大人は子どもに対して「自分を封じこめて苦しむくらいなら、やりたいことにチャレンジすればいい」とか「やりたいならなぜもっと早く言わないのか」と思ってしまいそうです。
「なぜ」と言われても、本人たちも自分のことがわからないのだと思います。何にモヤっとしているのか、本当はどうしたいのかわからないのでは……。例えばうまくなりたいスポーツとか、具体的な目標があればいいけれど、具体的な目標や救いがなかなか見つからない子は、きっといる。そういう子が本を読むかわからないけど、僕自身は本に助けられたので、クラスに何人かいるような、現実に救いが見つからない子のために、僕は物語を書いているのかもしれません。
この世から自分が消えたあとに
――詩人である斉藤さんがはじめての児童読み物を発表したのが2014年です。「物語を書こう」と思った最初の動機はどこにあったのですか。
「子どもに届けたい」というその一点です。もともと僕はずっと詩を書いてきました。でも東日本大震災が起こったあとに、自分が変わらなければいけないと思いました。言葉を生業(なりわい)にしている人たちの中には、震災直後、書けなくなったという方たちもいたけれど、自分はこれまでと変わらず詩を書けるだろう、だけどそれじゃ許されないという気がしたんですよ。
同時に、大人だけに書いていてはもうダメだ、とも思いました。自分がこの世界を去ったあとに残る人、これから生まれる人のために書かなければと。自分を変えるならあえて苦手なことをしなければと、長い物語を書きはじめました。
――はじめての物語の執筆中、出版のあてはあったのでしょうか。
何もないです。どこかに届くのかどうかもわからない、だれ一人読まないかもしれないものを書き続けるのはつらいけど「やらなきゃいけない」とそのとき思ったのです。2011年の震災後から書きはじめて、歌人で作家で絵本の文も書く東直子さんに相談したら、子どもの本の出版社の方を紹介してくれて。運よく書いたものが受け入れられ、はじめての児童書として出版されたのが2014年の『どろぼうのどろぼん』です。
それ以後も、出版のあてもなく書くということはよくあります。この物語もそうです。本来、長いお話は得意じゃない。全然すんなりは書けなくて、すごく悩みながらあっち行ったりこっち行ったり……アイデアや要素をひっくり返しては組み立て直し、試行錯誤(しこうさくご)しながら書いています。
大人だって「わからない」
――この10年、斉藤倫さんがつむいできた物語は、それまであった児童書のどのジャンルにも当てはまらない、独特な物語の系譜にあるような感じがします。
僕の書くものは、子どもにはむずかしいような部分もあると思います。でも、実は、そこは大人にもむずかしいのです。
――将来像が思い描けず、「なりたい自分は本当にあるのか?」と人知れず苦しむ子はいつの時代もいるのかもしれません。でもこの本を読むと、答えはわからないけど「どこかにちゃんと、なりたい自分はある」と信じられる気がします。
人は「子どものときはわからなかったけど、大人になったらいろいろわかる」と思いがちだけど、そんなことはない。なぜ死ぬんだろうとか、なぜ生まれてきたんだろうとか、子どものときにわからなかったことで、大人になってわかったことなんてほぼないんですよ。大人は“わからない”と思っていると日常生活が送れないので“わかった”ことにしているだけです。
でも、わからないことが悪いことじゃないと僕は思っているんです。わからないって、すごく前向きで豊かなこと。それは『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』などでも、多分ずっと同じことを言っています。
「わからないことを恐れない」という感覚は、詩にもともとあるものです。「そもそも言語になり得ないことを、相手にしているんだよ」という自負ですよね、詩の本質は。
――『新月の子どもたち』の中の、「現実が、あきらめなければ、夢は、生き返ることもある」「おれは、しなないよ。もう二度と」という言葉に心をゆさぶられます。大人もあきらめたくない気持ちになります。
大人も、みんな、子どもの自分とつながっていますから。それに、令のような子に読んでもらえたらというのはもちろんだけど、あまりぴんと来ない子にも「クラスに平居令みたいなやつ、いるよな。あいつこんな風に考えてるのかな」と少し想像してもらえるだけでもいい。どんな風に読んでもらってもいいと思っています。物語にたくさんの謎や意外なつながりなども隠してあり、いろんな角度で楽しめるものにしたいと願っています。
なやみ、もがいても、最後には「わからないこと」が残る。わからないことを「ない」ことにしない。一所懸命考えた末に、解き明かせない、もやもやしたなにかに実は大事なものがある。子どもたちにとっても、自分にとっても、そこは噓をつかない、と思って書いています。
【特集「今めぐりたい児童文学の世界」の記事より】
いとうみくさん「真実の口」インタビュー どんな子にも、その子の“真実”がある