日露戦争(1904~05年)最大の激戦とされる旅順要塞(ようさい)の攻略戦、中でも二〇三高地を巡る戦いで「日本軍はなぜ膨大な死傷者を出したのか」「現地の第三軍司令官・乃木希典の指揮は果たして適切だったのか」という問いに答えようとした。
従来の旅順戦史研究は主に戦いを中央から指導した大本営側の史料や公刊戦史に基づいていた。司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』もそれらをベースに「度重なる失敗にもかかわらず、戦法を改めようとしなかった乃木と第三軍幕僚らの無能により、数多くの兵士の命が失われた」という視点からこの戦いを描き、「乃木愚将論」として一般にも広がった。
しかし近年、乃木自身の日誌や第三軍参謀の日誌・回想録などの新たな史料が相次いで発見された。自ら発掘した新史料も加え、さまざまな意見対立や大本営側との摩擦の中、乃木たちが悩み苦しみながら決断していく様をつぶさに描いた。
元々は政治史を専攻していたが、史料はすでに出尽くしており、定説を覆すのは難しい。だが、戦後の歴史学でなかなか研究対象とされず、新史料が見つかる可能性も高い戦史であれば、従来の通説に変更を迫りその後の参照基準となるような「通史」を書けるのではないか――。
在野の研究者として防衛省の戦史研究センターや各地の史料館に足を運び、ネットオークションも駆使して史料の発見に努めた。既存史料と照合し徹底した読み込みと分析を行うことが『新史料による日露戦争陸戦史』『児玉源太郎』など歴史学界を瞠目(どうもく)させる著作として結実してきた。
写真の乃木の立像(左側)は本人が死の直前に制作を依頼したもので、現存が確認されているのは数体だけ。「乃木は武士の美風を引き継ぎ人情の機微にも通じていた。人間的には大好きだけど、歴史家としての評価は別。一切の予断を排し、本の中では指揮官としての判断ミスも容赦なく指摘した」と話す。その結果たどり着いた「乃木は名将か愚将か」という結論は、読んでのお楽しみとしよう。(文・写真 太田啓之)=朝日新聞2024年10月12日掲載