1. HOME
  2. コラム
  3. マーニー「物理学者の心」を読む 須藤靖・高知工科大学特任教授

マーニー「物理学者の心」を読む 須藤靖・高知工科大学特任教授

マーニー『物理学者の心』(祥伝社)

物理学者の不器用さ、応援したくなる

 知り合いの編集者から、「物理学に関係した小説を出版予定なのですが、科学的立場からコメントする監修者となっていただけませんか?」という連絡を受け取った(つまり、この書評はある意味ではゆる~い利害関係者によるものであることをあらかじめ明記しておく)。軽い気持ちでお引き受けし、早速読んでみてずいぶんと驚かされた。

 まず、著者は米国人である。しかし、本書は英語からの翻訳ではない。著者自ら日本語で執筆したものである。それを教えられずに読んだ人は決して、著者が日本人でないなどとは夢にも思わないだろう。私は最初、マーニーとは日本人のペンネームではないかと疑ってしまったほどだ。今でもまだ完全に信じられずにいる。

 しかしこの点だけを強調するのは、著者に対して失礼というものだ。日本人が書いた(としか思えないほど高いレベルの日本語の)小説であろうと、つまらないものはつまらない。本書は、(少なくとも私には書けないほどの)流暢(りゅうちょう)な日本語で綴(つづ)られた小説にとどまらず、ギリギリ最後まで明かされない奇妙な謎を軸として、読者を惹(ひ)きつけてやまない魅力を残しつつ、物語が進行する。

 特に、主人公の物理学者、松崎仁の描写が秀逸だ。50年近くにわたり、数多くの個性豊かな物理学者たちに日々接してきた私の経験から言っても、松崎のようなタイプの物理学者は実在したとしても不思議ではない(物理学者の名誉?のためにも、決して多いわけではないことも強調しておきたい)。だからこそ、その不器用さについつい「頑張れ」と応援してあげたくなる。このあたりは、一般の人々がこうあってほしいと期待している通りの(つまり過度に誇張された非現実的な)物理学者のイメージを集約した、ガリレオシリーズの湯川学とは好対照である。

 本書には物理学に関係した用語がしばしば登場するものの、それらは松崎の内面を読者に伝えるための手段に過ぎない。決して物理学的理解を前提としているわけではないので、どうかご安心を。逆に言えば『物理学者の心』というタイトルは、この内容から考えれば、物理学者というNGワードを前面に出すことで手にとってみようとする読者を減らしてしまうマイナスの効果に働くのではないか。おせっかいな私はついついそのような意見を伝えたものの、見事にスルーされてしまった。しかし、単行本になってから再度読み返し、最後のページに到達したところで、著者があくまでこのタイトルにこだわった気持ちがすっと胸にしみて納得できた。やはり本書の主題は『物理学者の心』なのである。

 読み始めるとついつい最後までページをめくる手がとまらないほど良く練られたプロットと、著者の国籍を超えたこなれた日本語の文章力を存分にご堪能あれ。私も読者の一人として、本書の続編が出ることを心待ちにしている。

 ほとんどの物理学者以外の読者のみなさんが、主人公の松崎に限らず、清貧に甘んじながら世界の真理を探求している無数の物理学者に、寛容な気持ちで接していただけるようになることを願ってやまない。

マーニーさん=祥伝社提供