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ルイス・キャロル「芥川龍之介・菊池寛共訳 完全版アリス物語」 あの訳者と注解で楽しい対話

 1927年に35歳で早世した芥川龍之介の遺作といえば、『歯車』や『或阿呆(あるあほう)の一生』がまずは挙げられるであろうが、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を叢書(そうしょ)『小學生全集』の一冊として芥川が翻訳した『アリス物語』も重要な遺作として挙げるべきではないか。この『完全版』を手にしてそのような気持ちになった。

 芥川は訳を完成させることはなく、菊池寛が完成させて共訳という体裁で1927年11月に発行された。そこにあった訳の欠落や誤訳を補いつつ、充実した訳注を施したのがこの『完全版』である。

 翻訳、抄訳、アニメ版なども含む翻案が星の数ほども存在する一方で、ナンセンスに接近さえもする言語遊戯のために翻訳が困難でもある『不思議の国のアリス』であるが、この一冊に私たちが惹(ひ)きつけられるのはもちろん、その訳者ゆえである。物語のカギともなる「タルト」が「饅頭(まんじゅう)」となってみたり(これには北原白秋訳の『まざあ・ぐうす』との関連が指摘される)、日本語独特の、そして芥川一流のオノマトペが効果的に使用されたり、本書は確かに「芥川・菊池訳で読む楽しみ」にあふれている。

 翻訳とは単なる言語の間の移し替えではなく、書き手の間でのコミュニケーションであり対話であることを本書は痛感させる。この場合はキャロルと芥川の間の対話だけではない。訳補・注解をつけた澤西も含めた三者の対話である。

 実際、澤西の注は愛を込めて、時には少し踏み込んだ形で、芥川の事情や心情を想像しては軽妙洒脱(しゃだつ)にコメントをつける。結末部の一節が名訳であるという熱のこもった注には首肯した。本書の読み所は、この訳注での対話にある。ぜひとも本文と注を一緒に読んでいただきたい。

 河野真太郎(専修大教授・英文学)

    ◇

 澤西祐典訳補・注解。グラフィック社・2090円。23年2月刊、4刷1万500部。編集部によると「芥川と菊池の翻訳で新しい世界が広がる。セリフ回しもリズミカルで痛快。アリスファンも、芥川・菊池ファンも楽しめる」という。=朝日新聞2025年4月19日掲載