「声(こィ)よりも深(ふが)い音(おど)っこ、生類(しょうるい)は抱(かが)えておるんじゃねぇのすか。/だがら、着(き)てないんですよ/白(しろ)い犬(いぬ)は、/じぶんの着物(きもん)を」
これは、『おしらこさま綺聞(きぶん)』所収の詩「白い犬」のひとくだりだ。不思議な語り口、濁音まみれの響きで詩集全体を記した。東北地方の土地言葉のようではあるが、私は群馬県桐生市生まれ。暮らしにこの言い回しはない。「作者独自の混成方言」と評してくださった大岡信賞選評が嬉(うれ)しい。じつは、すべて夢想のなかで響いた声、詩の想像力による言葉なのだ。
しかも、背景には口伝えで東北弁を教えてくださった皆さんがいる。東日本大震災で被災した岩手県大船渡市のおばあちゃん、おんばたちだ。そのお知恵を借り、二〇一四年から三年かけて『東北おんば訳 石川啄木のうた』を編集し、さらにお付き合いを深めたく、彼女たちのライフヒストリーを私が尋ねるドキュメンタリー映画『東北おんばのうた : つなみの浜辺で』(監督・鈴木余位、二〇二〇年)の企画制作をした。つまり、大船渡に通って本や映画を作りながら、じかに習った口語を母体に、自分なりの詩的言語に向かって再構築の挑戦をしたのが、『おしらこさま綺聞』の文体だ。

幸いなことに、詩集の幾篇(いくへん)かはすでに外国語に訳されているが、山形国際ドキュメンタリー映画祭二〇二一アジア千波万波部門に入選した映画のほうも、アイオワ大学のケンダル・ハイツマン准教授とその教え子が英語字幕、詩人・映画監督の鴻鴻(ホンホン)さんの発案で詹慕如(センボジョ)さんが中国語字幕を作ってくれたおかげで、米国の大学や台湾の国際詩祭など、国境を越えた上映もなされてきた。さらに、ベオグラード大学のディヴナ・トリチコヴィッチ准教授の監修でセルビア語字幕も完成し、この春は、上映会とアフタートークに立ち会うため、私はかの地へ赴いた。
東京より一足早く花の季節が来たような首都、ベオグラードでは立ち見が出るほど盛況で、ルーマニア国境に近い地方都市、ヴルシャツでも多くの来場者に恵まれた。おんばの闊達(かったつ)な冗談に会場は笑い、ちゃぶ台を叩(たた)きながら歌う民謡には喝采が起こった。字幕作りは、准教授とその呼びかけに応じたベオグラード大学日本学専攻の学生有志がボランティアで担った。グループ名「一期一会」をモジり、フィルムを纏(まと)ったイチゴのアイコンを自分たちで楽しんでデザインする積極姿勢で、会の運営も広報も志願してくれたのだ。一方で、彼らの多くは、セルビア第二の都市、ノヴィ・サドで昨秋起こった駅舎屋根の崩落事故に端を発する、新しい市民社会を希求するデモにも参加しているという。若者の目覚ましい意欲がこんこんと湧出(ゆうしゅつ)するうねりのなかで、この上映は成功したと言っていい。
じつは、トリチコヴィッチさんとの縁は深い。四半世紀前のユーゴスラビア紛争直後、私が勤める埼玉大学に留学生として来日し、その翌年、彼女の案内でベオグラードを歩いた。そのとき、空爆で傷付いた町の人々がむしろ大変に温かく、濃(こま)やかで、その肌合いは津波後の三陸海岸に通じていた。おんばの映画は、セルビア語字幕が付いたことで、戦争を含んださらに大きなスケールで災禍を捉え、その渦中で心と言葉を逞(たくま)しく肥やした人間群像を描く作品へ、育てていただいた気がする。
上映後のアフタートークでは、ベオグラード大学教授、ウクライナ人のリュドミラ・ポポヴィッチさんらと意見交換したが、少数語の重要性を説きながら、「軍隊をもつと、方言は国語になる」と透徹した眼差(まなざ)しで彼女が語ったことが、旅から戻っても胸から離れない。嚙(か)みしめていると、自作詩のこんな一節もふと浮かぶ。
八百比丘尼(はっぴゃくびくに)と同じくらい長命であるような奇怪な老婆が、詩集のなかで、皮肉混じりにこう言うのだ。「十字軍(ずうじぐん)も関ケ原(せきがはら)も大東亜(だいとーあ)も、/それほど違(たご)うて見(め)えんだよ、おらァのごとき老婆(ばばァ)にァ。/精液(しょうえぎ)のおたまじゃくしの水族館(すいぞッかん)でァねァのすか/(中略)/軍隊(つわもの)ァ、」(詩「化野」より)。
それは、この文体が「方言」であって「国語」ではないから、つまり、軍隊をもっていないから、おのずと紡ぐことのできた一節だったのではないか。不思議な響きそのものが、戦争を突き放して見つめる視点でもあったような……。そんな巡らしをしつつ、ポポヴィッチさんの緑色の瞳を、回想のなかでもう一度覗(のぞ)き込む。

詩というのは未知との出会いを含む面が濃く、書き終わったあとで、あれはこういうことだったかと、筆者のほうが気付かされることが多々ある。それが詩の面白さでもある。『おしらこさま綺聞』を方言で綴(つづ)ったことの意味を、私はこの先も探っていくだろう。
セルビアでは、野良猫ばかりでなく野良犬もしばしば見かけた。嬉しいことに、白っぽい犬もいた。ドナウ川とサヴァ川が合流するベオグラードの水辺で、鳥たちの囀(さえず)りを聞きながら、トリチコヴィッチさんと散歩したひとときも麗しかった。人間のためだけでなく、生類のために町はある。そういう気持ちを強くした旅でもあった。=朝日新聞2025年5月7日掲載
映画「東北おんばのうた」+トーク、6月25日に東京で
6月25日[水]午後6時から東京・築地の朝日新聞東京本社内「読者ホール」で、「ドキュメンタリー映画『東北おんばのうた : つなみの浜辺で』上映+トークの集い」を開きます。
映画上映(80分)に続き、詩人・新井高子さんと、詩人・管啓次郎さん(大岡信賞選考委員)、アーティストのやなぎみわさん(同)が、『おしらこさま綺聞』創作の源泉にもなった方言の生命力や可能性について語り合います。
入場無料。メール(dokusho-ouen@asahi.com)でお申し込みください。件名に「東北おんばイベント」と明記し、氏名、住所、電話番号をお知らせ下さい。6月11日締め切り。定員100人。応募多数の場合は抽選。
