恐ろしいけれど、甘美で懐かしい、悪夢のような物語
——本書に寄せた訳者コメントで、「悪夢から目覚めた時の現実の淡白さへの寂しさ」と書かれていました。
悪夢から目覚めると、いつもほっとするんですが、目が覚めた後の現実の世界のほうが文句なしにすばらしいかというと、そんなことはない。現実は味も色も薄くて、淡白に感じるんです。悪夢は恐ろしくて苦しいし、決して戻りたくはないんだけど、どこか甘美で懐かしく、現実よりも“世界の味が濃い”気がしていて。本書には、そんな悪夢的な魅力を感じました。
例えば、道しるべにと森でまいたパンくずを鳥が食べてしまう、というシーン。悪夢的で、“ヤバい”状況ではあるんだけど、この“ヤバさ”には、「さあ、これで道がわからなくなってしまった」とゾクゾクしてしまうような、甘美な感じもあると思うんです。
年を取るにつれて、人は世界をパターンや文脈で処理するようになります。会ったこともない人の写真を見て、「こういう顔の人はおそらく○○タイプだな」と判断してしまう、というように。そのほうが生きていくのに効率がいいからでしょう。でも、子どもはそういった“生存への優位性”は度外視して、よりダイレクトに世界を味わい、現物の中で生きているという感じがある。
僕も散歩中、わざとわからない道を歩きたくなることがあります。迷子になることで、あえて“パターン認識”が効かない感覚を味わいたいのかもしれません。ヘンゼルとグレーテルも、最後は無事に家に帰ってきて「めでたしめでたし」なんですが、彼らにとっての生涯のピークは、ある意味この物語のなかにあるんじゃないか、という気がするんです。
——S・キングとM・センダックのコンビネーションについてはどう感じましたか。
こんな組み合わせが実現するんだ!と驚きました。
直接的には描かれていませんが、『ヘンゼルとグレーテル』の物語には、飢餓や口減らしといった歴史的な背景がある。「とおりゃんせ」や「かごめかごめ」といった日本のわらべうたにも似た、暗喩的な不気味さが潜んでいます。
キングとセンダックの表現には、こうした不気味さや悪夢感を増幅するシーンが引き伸ばされている、という印象を受けました。例えば魔女リーアの住むお菓子の家。ヘンゼルとグレーテルははじめ夢中になってジンジャーブレッドの壁や砂糖の窓ガラスを食べているけれど、ふたりが中に入ると、家はたちまち正体を現わして逆にふたりをぺろんと飲み込んでしまう。そんな場面がとても細やかに描かれていて、悪夢感がいっそう強められていると感じました。
——翻訳していて、ほかに印象的なパートはありましたか。
ヘンゼルのセリフに、「白い子ねこ」という存在がたびたび登場します。「ぼくの白い子ねこを見てるんだよ。屋根の上にすわって、さようならって言ってるんだ」「ぼくの子ねこが、中に入りたがっている声が聞こえたんだ」というように。そのたびに、意地悪なままははに「あれはおまえのねこなんかじゃないよ。えんとつに反射した朝日じゃないか!」なんて冷たくあしらわれてしまうんだけど。この白い子ねこ、「ぼくの」と訳してみたけれど、実在するのかどうかもわからないし、ストーリー上はまったくいなくてもいい存在。もしかしたらイマジナリーキャットなのかもしれないな。
子どもの頃、僕は家庭の事情で何度か転校を経験しているんですが、転校したばかりのある時期、「いつもインコを肩にのせている神秘的な少年」になりたいなと夢見ていたことがあるんです。古い物語では海賊が肩にオウムを乗せているし、昔のアニメでも「キャンディ・キャンディ」ではスカンク、「宇宙少年ソラン」ではリスと、登場人物がマスコット的な小動物を従えていることが多い。それに憧れたんですね。飼っていたインコを肩にのせて玄関を出ようとして大暴れされ、すぐにあきらめてしまったんですけど……。
車のエンブレムや干支、動物占いなんかも同じで、自分の魂の色や形が形象化された、自分を守ってくれる存在。トーテムというのかな。ヘンゼルにとっての白い子ねこも、そういう存在なのかな、と思いました。不思議と心に残って、すごく好きなパートですね。
——そんなヘンゼルですが、前半は頼もしい一方で、後半にはグレーテルのほうがしっかりしてきて負けてしまう印象があります。
道に迷わないよう小石を拾ったり、パンくずをまいたり、魔女に骨を指だと思わせたり、ヘンゼルは色々工夫はできるんだけど、失敗するとすぐ心が折れちゃうんですよね。根本的なメンタルがそこまで強くないんでしょう。
一方、グレーテルは最後魔女をかまどに入れて焼いてしまう。ここの描写もやけに細かいんだけど、きっとこの瞬間がグレーテルの人生のハイライトなんだろうな、と思わせられます。
以前出した歌集の中で、グレーテルについて歌を詠んだことがあります。
「窓ひとつ食べて寝息をたてているグレーテルは母の家を忘れて」(穂村弘『水中翼船炎上中』より)
ままははの家を出て、お菓子の家に入ることで、グレーテルは別な次元の幸福を得たのではないか、と考えて詠んだ歌です。もしかしたら、魔女を殺したグレーテルは、二代目魔女になってお菓子の家に住み続けるのかもしれないな。そのほうが元の家に帰るより、よっぽど幸せかもしれない。新しい『ヘンゼルとグレーテル』を読むと、そんな空想が広がります。
昔の絵本やぬいぐるみには、“死の匂い”があった
——穂村さんは、会社員時代、あまりのストレスから、絵本をコレクションしていたとか。買うときの基準として、可愛い絵よりも不気味な絵の一冊を選んでいたとのことですが、センダックの絵もどちらかといえば後者ですよね。
今の絵本やぬいぐるみって、どんどん可愛いほうにデフォルメされて、“死の匂い”を隠蔽する方向に向かっていると思うんです。昔の絵本や人形、ぬいぐるみの動物たちは、意地悪そうだったり、不気味さが漂っていたり、もう少し“死の匂い”がしていた。森永のエンゼルマークも、花王の月マークもそう。改良を重ねるうちにどんどん可愛くなって、“死の気配”が消えているんです。
センダックが描く『ヘンゼルとグレーテル』の子どもたちは、時代的なものもあるのでしょうが、年齢不詳だし、どんなシーンでも表情に乏しい。僕は、可愛い絵よりも不気味な絵、子どもが無表情な絵になぜか惹かれるんです。宇野亜喜良さんが描く少女とか、ジョン・テニエルが描くルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の挿絵とか。センダックの絵も、そんなダークなところに惹かれましたね。
いい絵本は“トラウマ絵本” 穂村さんが考える、恐怖の魅了性とは
——穂村さんが短歌を詠むときと絵本の翻訳をするときで、言葉に対するアプローチには、なにか違いがありますか?
エッセイなどの散文を書くときと、短歌を詠むときと、絵本を翻訳するときの感覚は、僕は割と近い方だと思います。何を増幅して何をしないのか、その選択が共通している。現実や日常生活からの切り替えが圧倒的に大きくて、その真逆の部分、日常では消えてしまうものがテキストにおいては増幅されるんです。
だから「怖い歌はいい歌だ」って僕はよく言うんです。幸せな歌や楽しい歌、おかしい歌や悲しい歌には、いい歌も悪い歌もある。でも怖い歌に悪い歌はないんです。これは恐怖というものの特殊性を物語っていると思うんですよね。怖さには“意外性”と“深さ”が必ずあるということなのかもしれません。幸せな歌や楽しい歌は意外性がなく、浅いことも多い。人間は、幸せであればそれ以上考えませんから。
——この『ヘンゼルとグレーテル』も、子どもから大人まで楽しめる珠玉の絵本に仕上がっていますが、小さい子どもには、怖くて少しトラウマになってしまうような気もします……。
いい絵本はどれも、トラウマを残す“トラウマ絵本”といえるのかもしれません。僕の友達は子どもの頃、せなけいこさんの『ねないこだれだ』の絵本が怖くて、押し入れの奥にしまい込んでいたそうです。捨ててしまわないで押し入れにしまっていた、というところが面白いなと思うんだけれど。最後、子どもがおばけになって、おばけの世界に連れて行かれてしまうなんて、“トラウマ絵本”以外の何ものでもないですよね。
僕自身は、小さい頃に買ってもらった松谷みよ子さんの「ちいさいモモちゃん」シリーズに不安なところを感じていました。作中で、なんとなく父の陰が薄いんです。おそらく両親が離婚しているんだけど、物語のなかでは直接“離婚”という言葉を使わず、暗喩的に書いているから、子ども心にもなんだかすごく恐ろしい。親の離婚で家庭が崩壊したら、それこそ子どもにとってはトラウマなわけだけど、それを作品に導入する怖さを感じましたね。
戦争に飢餓、親の離婚……大人にだってどうしようもできないことを、さらに暗喩的にしてしまうことで、子どもにとっては、よりどうしようもできなくなる。子どもってまったく無力だから、その悪夢感といったらすごい。でも怖い絵本ってどれも傑作で、ロングセラーが多いんですよね。
——『本当は恐ろしいグリム童話』という本もかつて流行りました。
恐怖の魅了性というのか、「本当は怖いんでしょう」というものに人々は惹かれがちです。でも、よく考えると当然かな、と思うんです。我々は、本当はいつ死んでもおかしくない存在なのだから。人間は年を取った順に衰えて死ぬとは限らなくて、次の瞬間に誰だって、何の理由もなく死ぬかもしれない。そういう意味では「本当は恐ろしい生きていること」と言えるわけだから、怖がりながらも、人はついそういう要素を求めてしまうのかもしれません。悪夢のような『ヘンゼルとグレーテル』の物語に惹き込まれてしまうのも、ごく自然なことなのかもしれないですね。