物語の着想は「ムーミン谷」
――あやめと陽日が語り合う南天文庫、あやめが幼少期を過ごしたピンクの家とそこで暮らす3家族など、印象的な場所と人物が交差しながら語られていきます。作品の着想はどんなところから得たのでしょうか?
「ムーミン」の話が好きで、ムーミン谷のいろんな生き物たちの話を人間版で書いてみたいと思ったのが最初です。でもそれは、具体的に考えていく中で、ちょっと難しいなと思って諦めようとしていたときに、ピンクの家を見つけたんです。仕事で三重県の四日市にでかけたとき、歩いていたらピンク色の古い建物があって、地元の方に聞いたら元公民館だとわかりました。それがとても味わい深い建物で、物語ができそうな感じだったんです。ここに勝手に住んでいる人たちの話を書いたら、ムーミン谷っぽくなるんじゃないかと思ったのがひとつのきっかけです。それとは別に、私が20代の頃に通っていた「子ども文庫」(子ども向けの小規模な図書館)を組み合わせてみようと思ったのがはじまりでした。
――ピンクの家がムーミン屋敷だと思うと、いろんな人が住んでいるイメージがわきますね。
そうなんです。建物の中は見ていないので、外観だけですがモデルになっています。勝手に住むといっても電気はないと困ると思うので、いろんな人に「もしそういう所に勝手に住もうと思ったら電気はどうする?」って聞いたら、「そんなの外からとれる」って(笑)。すごいな、そういうことができるのかって、教えてもらいながら書きました。
――ピンクの家で「運命共同体」のように暮らしていた3家族の中には血のつながらない人たちもいます。たとえば、真実子と弟の功はあやめと血はつながっていませんが、きょうだい同然に育ち、ひとつの家族のように描かれています。
血がつながっていない家族を描きたかったんです。一緒に暮らすということは、必ずしも血がつながっていなくても家族だよなと思って。今、世の中が変わってきて、家族や夫婦の捉え方が寛容になっていますよね。それは、個人的にはとてもいい変化だと思っていて、自然と小説に影響してきたような気がします。
私自身は、血はつながっていないのに一緒に住んでいるというひとは夫しかいないけど、血がつながっていなくても親戚みたいに思える人はあちこちにいます。長年付き合っている編集者とか遊び仲間とか、結婚も離婚も全部見てきたとか、もうお孫さんができたのかとか、実際の親戚よりも密な関係。だから、ピンクの家の人たちも家族だと思います。
家族って面白い
――江國さんの作品には、家族をテーマにした作品が多いですが、家族というテーマに思い入れがあるのでしょうか?
あります。すごく。家族って面白くて、家族というものが好きなんです。外から見えないところも面白い。閉ざされているから、DVがあっても見えにくいとか、そういう危険もあります。でも、小説の素材としてとても面白いと思っています。家族だけに通じる言い回しとか、当たり前だと思っていたら他の家では違うとか。そのプライベートさと思い込みは楽しいなと思います。
――以前、電車の中で「しりとり」をしている親子がいて、それを聞いていたら、我が家の「しりとり」には出てこないワードがいっぱいあって、家族によって全然違うんだと驚いたことがあります。
それ、すごく面白いですね。この前、知人から小さな息子さんと「しりとり」をしていたら、息子さんがタピオカのことを「パピオカ」って覚えていたことを初めて知ったという話を聞きました。小さいからタピオカって言っているつもりでも「パピオカ」って発音してしまうんだろうなと思ったら、(しりとりで)「ぱ」のときに「パピオカ」って。「しりとり」って、そういう発見もあるから楽しいですよね。
私が子どもの頃、妹と「しりとり」をしていたときは、「ん」がついても延々続けられるようなルールでやっていました。終わっちゃうとつまらないから。「ん」がついたら、その前の文字をとるとか、いろんなルールをつくって、もう止めようって言うまでやる。うちでは、協力して続けていくゲームだったんです。そうしたら、大人になってよその人と「しりとり」をしたとき、言葉が出にくい「ら」とか「る」とかばかりで攻めてくる人がいて、すごくショックで、私、大人だったのに泣いたことがあります。どうしてそんなことするの? 続かないじゃないのって(笑)。そういうのも、家族の違いがあって面白いですね。
大事な「物語の共有」
――本作のタイトル『外の世界の話を聞かせて』は、あやめが陽日に言う言葉としても印象的です。「外」にはどのような意味が込められているのでしょうか?
「外」って定義はできなくて、ある人にとっては「外」でも、別の人にとっては「内」だったりもする。流動的だと思います。あやめは、ちょっと変わった育ち方をしていて、テレビを絶対に見させてもらえないなど、閉ざされた中で育った。でも、大人になって閉ざされていない今もテレビを見ていない、たぶん彼女は好んでその中にいるような気がするんですよね。陽日のように、サイゼリヤにも行けるし、バレーボールも見に行ける。どこにでも行くことはできるのに、望んで閉ざされている。でも、それもありですよね。どんなふうにでも人はいられるので。
時間的な「外」ということもあります。あやめにとって、陽日のような若い子は「外」。自分はもう生きないであろうこれからの時代を生きていくのは、「外」の世界。そして、あやめが語る過去の話も、陽日にとっては「外」の話なんです。学校の外側と内側とか、仲良しグループの外側と内側とか、あらゆるところに「外」と「内」がある。先ほどの「しりとり」も、家族の内側と外側で違いますよね。
――陽日があやめにピンクの家の話を聞きたがるのは、「物語みたいだから」というのがとてもいいなと思いました。家族から聞く思い出話も、言われてみると物語みたいですね。
昔の話だけじゃなくても、家族で夜「今日どうだった?」って聞くのも物語の共有ですよね。会社で嫌なことがあったとか、飲み会で誰がどう言ったとか、学校で何があったとか。私は自分が生きている中で、物語の共有がすごく大事だと思っています。例えば、三日月がきれいに見えたら、絶対、夫と妹に「三日月がきれいだから見て」ってLINEするんです。共有したいんです。どうでもいいようなことを共有できるっていいですよね。
家族でも、どんなに仲が良くても、365日24時間一緒にいるのは不可能なわけだから、離れている間、その人が何を見ているのか、何を食べているのか知りたい。でもそれは、どんなに親しい間柄でも一緒のものにはならないから、物語になってしまうんですよね、きっと。聞く話とか送ってもらう写真は物語になるし、自分にとっては外のことになってしまうなと思います。
――話している方も物語にしているところがあるんでしょうか?
そうでしょうね。どんなに事実だけを話そうとしても、話した途端に物語になっちゃう。物語ってそういうものですよね、きっと。
ひとりを確認できる「隙間の場所」
――南天文庫やピンクの家以外にも、真実子が働く斎場、陽日のピアノレッスン室、功の働く店など、それぞれに居場所があることも印象的です。
誰でもそういう「隙間の場所」を持っていないと息苦しいだろうなと思うんです。私は小学生の頃、休み時間に裏庭に行っていました。いじめられているわけではなかったし、お友だちが嫌いなわけでもない。一緒に遊ぶこともあるんだけど、でも、ひとりなれる場所が欲しかった。きっとみんなそうで、どんなに仲がいい家族でも、ひとりになれる場所がないと窮屈ですよね。そういう隙間の場所があるといいなと。
功が働いているバーなんて本当に隙間の場所だと思う。単にお酒が飲みたいだけだったら、家で飲んでもいいわけで、バーというのはどこでもない場所なんだろうな。そういう場所を経ないと家に帰れない人もいるだろうし。真実子が働いているのは、この世とあの世の隙間みたいな火葬場だし、あやめの南天文庫も本の物語の中に入る隙間の場所。隙間の場所には、ひとりで臨む、ひとりを確認できる場所でもあるから、生きる上でも私は大事だと思っています。
――隙間の場所は誰でも持つべきでしょうか?
持つべきとまでは言えないけれど、持っていたらいいのになって思います。もっと楽になるのになって。例えば、通勤電車の中も隙間の場所。自分を知らない人たちの中って、かえって楽な部分もあります。満員電車は嫌でしょうけど、座れれば本を読めるかもしれないし、考え事もできるかもしれない。たぶん、自分が「父親」とか「母親」とか、そういう肩書じゃない自分でいられる場所というのが隙間の場所なんだと思うんです。
旅先もそうですよね。外国に行けば、自分が「母」か「妻」かどうか誰にもわからない、小説家だってこともわからない、肩書なくいられる場所。自分でいられる、自分でいざるをえない場所。だから、不安に思う人もいるかもしれないですよね。「母」や「妻」であることが快適な人だったら、それを取り払われたら不安になるとか。でも、いつかは自分と向き合わなきゃいけないから、隙間の場所はあったほうがいいなと思います。
――ひとりでこっそりいるだけでなく、人がいっぱいいるところも隙間の場所になりうるんですね。
期待されていない場所です。例えば、学校で優等生な子とか、やんちゃな子とか、子どもってそういうのを期待されていることがわかると思うんです。クラスの中でなんとなく役割があって。でも、南天文庫みたいな場所は、それがない。そこでは本を読んでいればいい、そういう期待されない場所って気楽かなと思います。
結末は風にほどいてもらう
――本作は、場所や人物、時間が混ざり合って展開していきます。交差していく感じがとても面白いなと思いました。
だったらいいんですけど、そこはちょっと自信がないです。ややこしいというか、目まぐるしいかもしれないなと。私の母が生きていた頃に、ちょっとぐちゃぐちゃした小説を書くと「まどろっこしいわね、もっとスッキリ書きなさい」って言われてたから、これも言われるだろうなと思います(笑)。
時間が交差しているのは、この作品に限らず、いつも意識しています。同じ現代のパートでも、陽日と大人たちでは、別の時間が流れている感じがあります。子どもの時間と大人の時間は、一緒に住んでいてもたぶん違うふうに流れていると思うんです。
――終わり方も結末がなく、続きがあるように感じられますね。
私の小説はいつもそうなんですよね。その後も続いていくという感じが好きなんです。物事に決着なんてつかないと思っているところもあって。風にほどいてもらう、みたいな感じになります。
――最後に読者にメッセージを。
この小説を読んだ人が自由になってくれるといいなと思います。こんなんでもいいのかって。その「こんなん」がなんでもいいんですけど、なにかちょっと頭の風通しが良くなるとか、気持ちがさっぱりして自由になってくれたらいいなと思います。(真実子のように)4回結婚してもいいんだとかね。常に事実は小説よりも奇なりで、小説だからってありえないようなことを書いても現実はその上をいく。6回結婚している人は絶対いるし、功みたいに50歳過ぎて定職についていない人もいるし、でもちゃんと立派に生きているわけで、大丈夫って思ってくれたらいいなって思います。