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差別や偏見を隠した「ずるい言葉」を解説 社会学者・森山至貴さんインタビュー

文:篠原諄也 写真:斉藤順子

世の中の「ずるい言葉」はどこか差別に通じている

――森山さんは大学で学生さんに「自分が言われてモヤモヤした言葉」をヒアリングしたそうですね。特にどのような基準で選びましたか?

 読者にとっての取っ掛かりが多い本にしたかったので、特定の学問分野やジャンルの話だけにならないよう心がけました。女性差別やセクシュアルマイノリティ差別の事例だけでなく、血液型、障害者、ひとり親家庭などの話題も取り上げています。

 ただ、どんな話題を選んでもやはりどこかで差別の話と繋がっているな、と書きながら思ったんですよね。人間関係のさまざまな問題と差別の問題は、「ずるさ」を通じてゆるやかに繋がっている感じがあるんです。自分の思い通りに相手を動かそうとしたり、否定したりする。その巧妙なやり方が、人を差別する時に起こっていることと、通底しているように感じます。世の中の「ずるい言葉」には「ある人をその人のカテゴリに基づいてジャッジしてやる」という嫌な感じが含まれている、と言いかえることもできるかもしれません。

――学校に限らずよく耳にする言葉で「言い方が悪い」がありました。本書の会話のシーンでは、先生に髪の色を注意された生徒が友人に「余計なお世話だって言ってやろうかな」と言います。友人は髪の色と勉強は関係がないと同調しつつも、「そんな言い方じゃ聞き入れてもらえないよ」と返します。こういう「言い方が悪い」という指摘は、差別をなくす運動を中傷する際にも使われる言葉だと思いました。

 ある主張をみんなが納得するかどうかは、単純に主張が正しいかどうかによって判断されるべきですよね。だけども「そんな言い方じゃ聞き入れてもらえないよ」と言う人がいる。現状で困っている人だけが、もう一つ別の基準をクリアしないと「あなたは正しくない」と言われてしまう。とてもアンフェアな状態です。

 ここには「お願いする側」と「聞き入れる側」という役割が固定されてしまう危険性があります。現状で力の強い立場と弱い立場の間にある不均衡に沿うかたちで、役割が分担されている。一見すると正しいことを言っているようで、むしろ不均衡な状態を持続させるため、フェアで正しい状態を遠ざけるためにずっと使われてきた言葉なんです。

 たとえば、フェミニズムの主張は、「口の利き方がなっていない」とずっと批判されてきました。そして、フェミニズムの功績の大部分は、「口の利き方」の罠にはまらず、はっきりと物を言う女性たちの奮闘に多くを負っています。だから、「正しくても受け入れてやらないからね」と事実上言っているような発言のずるさ、アンフェアさは、論理的に考えて明らかなだけでなく、歴史的に証明されていることでもあるんです。

 また、言われた側の心持ちの話も問題を複雑にしています。たしかに、私たちはなんとなく「やっぱり丁寧にしゃべったほうがいいかも」と思うわけじゃないですか。その直感が当てにされて、むしろ抗議の言葉を封じられている。だからそこは掻い潜ったり乗り越えたりして、ちょっと強い言葉や汚い言葉が必要とされる局面があることを理解しないといけません。そうしなければ、自分の良心が自分を閉じ込めることになるから気をつけようね、という話を、本の中ではしています。

――いざ言われてしまったら、なんと言い返せばいいでしょう?

 そうですね。そもそもひどいことを言われた時に、相手を説得することが必要かを考えてもいいと思います。聞く耳を持たない人をわざわざ説得しなくてもいいんじゃないか。

 もちろん、もし余裕があったら、相手に言い返してもよいと思います。売り言葉に買い言葉で「なにが正しいか分かってないから、言い方にこだわるような真似しかできないんでしょ?」などと言い返すことはできます。

 でもこの本では、全ての「ずるい言葉」に言い返すべきだと主張しているわけではありません。なぜかというと、説得されてくれるほど相手が理性的に考えられているかも疑わしいからです。だから、説得せずに逃げたっていい。でもそこで、「私が逃げることには正当性がある」と思って、逃げてほしいんです。

「もうなにも言えなくなる」は本当か?

――他によく聞く言葉だと思ったのが「あれもこれも言えないとなるともうなにも言えなくなる」でした。差別的な言葉を指摘されて「なにも言えなくなるじゃないか」と反論する。ネット上でもよく見られる言葉です。

 そもそも、これは反論になっていないんですよね。「なにも言えない」、それはそれで大変けっこう、で終わる話なのですから。この本でも「じゃあなにも言わないでください、そのほうがみんなのためです」と書いています(笑)。でも、そう応答したとしても、相手が黙っていてくれる気はあまりしません。おそらく「なにも言えなくなる」と言う人は、実際には言う気満々なわけです。だからこそ「なにも言えなくなるじゃないか」と文句をつけてくる。要するに、他人を傷つけようがお構いなしに「今まで通りになにかを言える」状態を維持しようとしているわけですから、卑怯だなと思います。

――本書では、ある男性の先生が同僚の先生が人気である理由を「女の先生だからね。やっぱり美人だと得だよね」と決めつけています。生徒がそんな言い方は失礼だと指摘する。すると先生は「美人っていうのはほめ言葉なのに」「もうなにも言えなくなる。息苦しい」と不満を吐きます。

 このシーンに描かれているのは典型的な性差別ですね。男性教師は女性教師の性別にばかり着目していますが、そもそも「女性であること」「美人であること」は、教育者の資質とは関係がありません。それこそが女性教師の人気の理由だと言うことは、「女性教師は教育者の資質を得る正当な努力なしに人気を手に入れた」と言っているに等しいわけですから、同僚に「努力不足」「ずるい」と言っているのと同じです。

 本当になにも言えなくなることなんてありません。たとえば、生徒への言葉づかいは丁寧なのか、担当の教科の知識はどのくらい豊富なのか。語るべきことはいくらでもあります。なのに「なにも言えなくなる」と言うのは、性別しか気にしない、いびつな観察眼ゆえのおかしな発言である、と私は思います。

――森山さんの前著『LGBTを読みとく─クィア・スタディーズ入門』(ちくま新書)では、LGBTの基本概念や歴史的背景を解説していました。最初に差別をなくすためには「良心ではなく知識が必要」と書かれていたのが印象に残りました。「よい人」になることではなく、知識を持つことが重要であると強調しています。

 「よい人」だと自認することは、けっきょくただの独りよがりなんですよね。差別論の基本的なテーゼですが、「差別するつもりがないことが、差別しない保証になんかなるわけがない」のです。差別は、差別をしかねない側、つまりマジョリティ側の心の持ちようの問題じゃないんです。これはどれだけ口を酸っぱくして言っても言い足りません。相手が傷つくことにもっと謙虚に向き合いながら差別について考えるべきです。

 私は学者なので、個人の生き方や社会のありかたは、事実にきちんと基づいているという意味での「正しさ」によって裏付けられるべきだと思っています。独りよがりの回避と事実に基づいた議論、このふたつの重要性を組み合わると「良心ではなく知識を」という方針になるんじゃないかなと思います。

――最近「ブラック企業」という呼称が黒人差別を助長するとして問題化されています。それに対して、黒人を侮蔑する意図の込められた言葉ではないので、問題がないとする反論がありました。森山さんは本書で差別語かどうかは「その言葉がどのようなニュアンスで使われてきたかという歴史的文脈で決まります」としていました。「ブラック企業」のように、文脈を考えると侮蔑する意図はなかった言葉については、どうお考えですか?

 「ブラック企業」という言い方よりもまともな言い換え方があるならば、どんどん言い換えていけばよいと思います。それで「ブラック企業」を問題視してきた歴史や意義そのものがなくなるわけじゃない。「ブラック企業」と呼ぶことで達成されたことを否定せず、別の問題点が発見されたなら、もっと適切な言い方に直すことでそれも解決していけばいいのに、と思います。それで済む話ではないでしょうか。

 「もともとそういう意図で使われた言葉じゃなかったからまったく問題ない」と言う発言は、文脈に関する議論を半分は掴んでいて、半分は掴んでいない気がします。その言葉がどういう歴史をたどってきたかが重要なのはその通りです。しかし「言葉づかいの起源に問題がなかったから今も問題がない」という考え方は、今もまた歴史的文脈の中にあるという事実を無視しています。

 たとえば、レズビアンをさす侮蔑語で「レズ」という言葉があります。これは元を辿れば(紀元前ギリシャの詩人サッフォーが住んだ)「レスボス島」に由来する言葉です。でも、「もともとはただの島の名前だから別に使ってもいい」と言われたら、「なにそれ?」って話ですよね。もともと悪い言葉じゃないから今も使ってよい、とはなりません。

 文脈は大事なんだけど、起源の意味がすべてじゃない。言葉は新しい文脈に置かれて、次なる意味を伝えていきます。今の文脈の中で相応しくないと思ったら、変えればいい。「ブラック企業」と言い始めた人が黒人差別的だったと告発したいわけではありません。今は違う言葉になったほうがよいならば、単純に変えればよいと思うんです。

良心のかたちを丁寧に形成していくこと

――「クィア」という言葉は、男性同性愛者やトランスジェンダー女性に対する侮蔑語でしたが、あえてその言葉を用いることで、自身に結び付けられた否定的なイメージを覆そうとしたと解説されていました。本書の大前提として、他人に対して侮蔑語を用いてはいけないということがあると思いますが、当事者が自ら「ホモ」「レズ」「おかま」といった蔑称を使うことについてはどうお考えですか?

 それはあると思いますし、政治的に正しい立派な言葉が、自分にフィットしないと思う人がいっぱいいるのは当然です。自分のことを「ホモ」「レズ」「おかま」などと言う人がいるのは珍しいことではないと思います。

 ただし、当事者だからいつ何時でも自分のことを「ホモ」と言っていいとは私は思っていません。当事者でも言ってはいけない場面があるはずです。たとえば、誰かが小中学校で自分のゲイとしての経験について語るとなった時、友人との会話でいつも使うように何度も「ホモ」という言葉を使ったら、その発言に傷つく生徒がいるのは明らかでしょう。オフィシャルな場面など、ある特定のコンテクストでは使うべきでない言葉はあるのです。

 いつ何時でも言っていいわけではない。しかし上手いタイミングで言うと力になることがある。たとえば「クィア」とはそういう言葉だと思います。

――本書には自分自身これまで使ってしまった言葉もありました。反省しながら、今後使わないようにしていくのが大事でしょうか。

 そうですね。実は僕自身も使ってしまっていた言葉があります。この本の最後に「私たちの良心のかたちを点検し続けていきましょう」と書きました。前著で「良心ではなく知識を」と書いた時に、読者から「でも良心がどうでもいいと思ってるわけじゃないですよね」と言われて、たしかにどうでもよくない、と思ったんです。ただ、知識に基づいていない、ロジックがない良心には意味がない。ちゃんとした良心とはどういうかたちのものなのかを考えたい、というのがこの本を書いた最大の理由です。

 最初から一発で百点満点をとることは、自分にも読者にも想定していません。たしかにこの本の中の「ずるい言葉」を誰も使わなくなれば素晴らしいし、そうなってほしいと思って書きました。でも実際は言ってしまうこともある。その時は反省しながら、点検して少しずつ直していくしかないですよね。そうやって、良心を丁寧に形成していくことが大事だと思っています。