「人新世の病」と闘うための処方箋[前篇] ピーター・J・ホッテズ×詫摩佳代『次なるパンデミックを防ぐ』より
記事:白水社
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詫摩 本書〔『次なるパンデミックを防ぐ──反科学の時代におけるワクチン外交』〕は、COVID─19パンデミックのさなかでの刊行となりました。COVID─19に関して、博士が本書のなかで言及されている「ポスト2015の緊急課題」にあてはまる、数多くの要素を目にしました。たとえばCOVID─19ワクチンをめぐっても、反ワクチン運動が主にヨーロッパと米国で起き、これらの地域はワクチン接種率が頭打ちの状態となっています。ワクチンの南北アクセス格差も深刻です。こうした状況をどのように受け止めていますか。
ホッテズ 本書のポイントは、感染症を復活させる、あるいは私たちの進歩を減退させる要因のなかには、医師および科学者としてのわれわれが、普段は考えることのない要因が含まれるということを指摘することにありました。それらは社会的な要因であり、たとえば紛争、戦争、政治的崩壊、都市化、人口移動、気候変動、またあなたが言ったように反科学の台頭などです。本書の大部分は、COVID─19パンデミック以前に書かれました。私は2015年ごろから、地球規模の健康問題の成功にほころびを感じはじめていました。ちょうどその時期に減退が始まったのだと捉えています。ある意味、私はCOVID─19をその衰退の延長線上にある、究極の事件と捉えています。
COVID─19が蔓延するなか、反科学の台頭はとりわけ米国において、懸念されています。米国では死者数が非常に多く、COVID─19で亡くなった人は80万人に達しようとしています。とてつもない大惨事です。これらはワクチン接種の拒否やワクチンの軽視に原因があります。反科学はいまや、米国において支配的な死に追いやる要因となっており、私は世界レベルでそのことを心配しています。
これは、最新の社会的決定要因であり、いまも進化を続けています。2015年以降はとくに、人の生死を左右するようになっています。あるいは、反科学は人を殺すとさえ言えるかもしれません。この不安は米国内にとどまりません。日本や世界のあらゆる地域で、この現象が起きはじめていると感じます。
詫摩 現在、日本でもワクチン接種に消極的な人びとがいますが、その主な理由は安全性や副作用に対する不安であり、きちんとした情報が得られれば、あるいは周囲の人がワクチン接種をおこなえば、ワクチンを接種する人もいます。他方、博士が本書で指摘されているとおり、インターネットの影響もあり、今後、反科学の動きが欧米以外にも広く波及していく可能性は否定できず、私も深く懸念しています。
ホッテズ 日本ではたとえば、子宮頸がんやその他、がんのためのHPVワクチンに関して非常に大きな問題が起きています。私は、自分がいま目にしていることを心配しています。それはもはや、誤情報とかフェイクニュースとか呼ぶレベルのものではありません。反科学の攻撃です。政治的な目標を持つ何者かによって周到に準備されたものです。私たちはそれらを注視しなければなりません。非常に危険な勢力となってきているからです。
詫摩 続いて、COVID─19のワクチン外交についてうかがいます。中国とロシアは、中国の「一帯一路」構想に参加する国々、あるいは戦略的に重要な国々を対象に、COVID─19のワクチン外交に積極的に取り組んでいます。とりわけ中国のワクチン外交は、中国製ワクチンを供給するだけでなく、エジプトやモロッコなどを対象に、国内でのワクチン製造支援にも及んでおり、途上国の生産能力という観点から、長期的な影響を及ぼす可能性もあります。他方、中国のワクチン外交は、戦略的外交の一部であるとして、西側の国々やメディアから批判されています。中国またはロシアのCOVID─19ワクチン外交について、どうお考えですか。
ホッテズ 状況は複雑です。中国もロシアもワクチン外交と呼んでいますが、実際には、ワクチン・ナショナリズムと表現するのが適切でしょう。彼らは自国のワクチンを、政治的影響力やコントロールを獲得する目的で、あるいは譲歩の見返りとしてきわめて取引的に使用しています。ですから、ワクチン外交という言い方は正しくありません。これはワクチン・ナショナリズムです。
パンデミックの当初、中国とロシアのワクチン製造元は、ワクチン関連の通常の政府機構を迂回して、また、世界保健機関(WHO)やその他、規制機関とは無関係に活動し、複数の国々と直接やりとりして複雑な結果を招きました。ワクチンの品質も、場合によっては有効性のレベルもまちまちだったからです。そのことが危険な状況を生み出しました。
現在は、中国とロシアの製造元の一部はWHOと協力しており、私はそのことに安堵しています。ただ現時点では、これを真のワクチン外交と呼ぶことはできません。重要なことは、中国とロシアをグローバルな組織に組み入れることなのですが、これまでのところ、それがうまくいっているとは言えません。
詫摩 日本、米国、オーストラリア、インドで構成されるクアッド(日米豪印4カ国戦略対話:QUAD)も、部分的には、東南アジアや南米諸国を対象に、COVAXファシリティなど多国間の枠組みを介さずに、戦略的にワクチンを供給しています。西側諸国のアプローチも、ワクチン・ナショナリズムと捉えるべきでしょうか。
ホッテズ クアッドの取り組みは、ワクチン開発能力の構築支援という面でも、非常に重要です。たとえば、私たちのテキサス子ども病院ワクチン開発センターでは、COVID─19向けの、低価格組み換えタンパクワクチンを開発しました。私たちは世界にワクチンを供給するために、この開発をインドのバイオロジカルE社やインドネシアのビオ・ファルマと共同でおこなってきました。
クアッドはバイオロジカルE社が製造能力を拡大できるよう支援しました。つまり、単にワクチンを販売したり売り込んだりするのではなく、製造能力やインフラの構築支援に携わったのです。このことは大きな助けとなりました。ロシアや中国のワクチン・ナショナリズムとはまったく異なるものだと考えます。
詫摩 本書を読んで、米国と中国のワクチン外交の可能性について考えさせられました。冷戦期に米国とソ連がポリオや天然痘の撲滅に向け協力したのとは対照的に、今回のパンデミックでは、米国と中国の対立はますます激しくなり、両国の技術協力にも影響を及ぼしかねない状況です。
西側の製薬会社が技術移転や知的財産権の放棄を拒んだのは、中国への技術流出を懸念したことがその一因です。ウイルスの発生源やワクチン外交の能力をめぐる米国と中国の対立は現在も続いています。博士は本のなかで、ワクチン外交は病気の予防に加え、国家間の関係構築にも有効だと書いておられます。現在の状況をどのように捉えていますか。ワクチン外交は、米国と中国の関係においても可能でしょうか。
ホッテズ 可能だと思いますが、ハードルは非常に高く、簡単にはいかないでしょう。ただ、言いたいのは、スプートニク打ち上げ後の1950年代に、米国とソ連がワクチン外交に取り組み、協力してポリオワクチンを開発できたのなら、米国が中国と協力することも可能なはずだということです。ただ、あなたの言うとおり、現在はCOVID─19の発生源をめぐって両国の緊張が非常に高まっています。台湾に関しても同様です。現在は非常に難しい時期だと思います。一方、国家間の緊張を緩め、取り除くツールとしてのワクチン外交の重要性はいっそう増してきています。
私は1994年から、主として寄生虫感染症の研究を中国でおこなってきました。また、米国のバイデン政権に対して、米国と中国間の科学特使、ワクチン特使として働かせてもらえないかと提案しました。ちょうど2015年から2016年にかけて、オバマ政権で中東および北アフリカに派遣されたときのように。私はそれが非常に重要だと考えたのです。しかし、いまのところ実現していません。
私はワクチン外交と協力は可能だと考えます。いまはとても難しい時期で、米国と中国の関係は緊張しています。一方で、ワクチン外交に乗り出すべき理由を私は数多く持っています。緊張を緩和するためにも、緊張のあるいまこそ、それをおこなうべきです。
【ピーター・J・ホッテズ『次なるパンデミックを防ぐ──反科学の時代におけるワクチン外交』(白水社)所収「補章 ポストコロナのグローバル・ヘルスに向けて──ホッテズ博士へのインタビュー」より】