藤原さと×星野俊樹「不安の時代に教育ができること」(後編)
記事:平凡社
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藤原さと(以下、藤原):教師も、いつもできているところばかりを見せる必要はないんですよね。「自分は正しくていい実践をしている。子どもはまだできていないからここまで引き上げましょう」という教師像は、探究する教師のモデルとしてどうなんだろうと思うんです。これまでは、教師は漢字が書けるから漢字を教える、計算ができるから計算の仕方を教える、ということをしてきました。でも、探究はそれとは違う。探究する人が、探究する姿そのものを見せていくこと。それが探究する教師なんだと思うんです。転んだり、失敗したりする姿ですらモデルになる。子どもたちはこれからたくさん失敗していくわけですよね。だから、教師も、「ここはうまくできなかったけど、次はこうしよう」と考えたり、「あれは間違っていた。ごめん」という姿を見せると、子どもたちも、失敗したり、弱いところを見せたりしてもいいと学んでいくんだと思います。
星野さんをすごいなと思うのは、自分のマイノリティ性や、苦しかったこと、うまくいかなかったことも含めて、そういう姿を見せているところなんです。
星野俊樹(以下、星野):私は最初から、失敗したり間違えたりする自分を見せられる人間だったわけではないんです。不安に覆いつくされていたから、自分の非や間違いを子どもや親の前で認めてしまったら立場がないという恐怖とずっと戦っていた。でも、岩瀬直樹さん(元・風越学園校長、現・真鶴町教育長)にすごく影響を受けました。岩瀬さんは、「不安ベース」の教育ではなく「信頼ベース」の教育をやりましょうと提唱してるんです。子どもはそもそも有能であり、それを信じることを前提にしている。「子どもを放っておいたらカオスになって、暴れちゃって大変だ」というのは、不安ベースの発想ですよね。そうではなく、信頼ベースに立つ。
不安ベースに基づいた、私の間違った教育実践についてお話ししたいと思います。2019年のことなので、そんなに昔の話ではありません。当時、子どもたちから「○○ちゃんが嘘をついて、自分のやったことを人のせいにする」「○○ちゃんがトゲトゲ言葉を言ってきた」といったことを言われることが増えていたんです。それまでは、私が個別に話し合う機会をつくって対応していましたが、子どもたち同士で話し合い、自分たちで問題解決できるようになってほしいと考えたんです。そこで個々人の「信用貯金」をつくることにしました。自分の行動によって、他者からの評価、信用度がどんどん変わっていく。他者からの評価を意識して、「悪い」自分の行動を律することもできるようになってほしいと思ったんです。それで教室の後ろに「信用貯金」の紙を貼りました。私は「すごくいい実践を思いついたな」と思ったんですが、同僚に「なんで貯金なの? すごい違和感がある」って言われたんですよ。そう言われて、自分が新自由主義的なものと親和性の高い教育実践をしてしまっていたことにようやく気づいた。そこで、子どもたちに、「信用貯金」の何がまずかったのかを噛み砕いて説明したうえで、同じような内容の学級通信を親たちにも配ることにしました。
「先生」を専門職として考えれば、自分の専門性のなさを露呈することになる。でも、一人の人間として、自分の迷いや葛藤、失敗を伝えて、共有したいと思ったんです。通信を配った後、何人かの保護者が、「この前の通信、よかったよ」と言ってくれました。「私は子育てにいつも失敗していて、ダメな親だなと思っていた。でも、先生も間違えるんだね」と。その言葉を聞いて、親たちとの関係性も変わったように思いました。でも、なかには、私の自分語りに違和感を覚えた人もいるかもしれません。今でも、そんな通信を書いたことがよかったことかどうかはわからないのですが、その後の自分の教育実践にも影響を与えた出来事でした。
藤原:「不安ベースの教育から、信頼ベースの教育へ」で思い出したのが、スウェーデンで保育士をされている巽朝菜さんとお話ししたときのことです。「スウェーデンの教育や保育で、一番感銘を受けたのは何ですか」と聞いたら、「信頼」と言われたんですよね。子どもに何かを経験させるときも、その経験によって子どもが何を感じ、何を考えるのか、その判断力を信頼することが大事なんだと思います。子どもは何かを見たり、誰かの話を聞いたりしただけで、そのまま一つの考えに染まってしまうような存在ではない。自分なりに考えて、判断する力を持っている。それなのに、最初から大人が「これは危ない」「こう考えてはいけない」と判断して、出会うものそのものを制限してしまうことがある。
文科省は、「子どもたちが主体的に考えられるように」「探究をしよう」と言っているわけですよね。そのためには、いろいろな人や社会の現実に出会うことも必要になる。だったら、何に出会わせるかだけではなく、出会ったものに対する子ども自身の受けとめ、判断・思考を信じることが大事なんじゃないかと思うんです。子どもを主体的な存在として育てたいと言いながら、その判断力を信頼しない。それでは、主体性というものをどうやって育てるんだろうと思うんですよね。
星野:包括的性教育でも同じことが言えます。「寝た子を起こすな」という考え方があるじゃないですか。性に関する知識を子どもに与えると、性的に活発になって、若いうちに性交渉に進んだり、望まない妊娠が増えたりするという考え方です。でも、実際には、包括的性教育を受けた子どもたちは、知識があるからこそリスクを避けて、より慎重な行動を取るという調査があります。「寝た子を起こすな」という考え方にも、子どものことを見くびっているところがあるのではないかと思うんです。知識を得たら自分で考えて判断するという子どもの力を信じていない。そこにも、子どもへの「信頼」のなさが表れているんじゃないでしょうか。
藤原:私はデンマークのフォルケホイスコーレの一つ、エグモント・ホイスコーレンと一緒に仕事をすることが多いのですが、同校の教員と話していると、キルケゴールの「不安は自由のめまいである」という言葉が出てきます。特にアウトドアを担当しているピーターはキルケゴールが好きで、よくこの言葉を口にするんです。
フォルケホイスコーレは、デンマークにある成人学校で、高校を卒業するくらいの年齢から入ることができます。入学試験もなく、誰でも入れる。寄宿学校のような環境で、みんなで一緒に食事をして、対話をしながら学ぶ学校です。音楽や政治、体育、アートなど、それぞれに特色のある学校があります。エグモント・ホイスコーレンは、障害のある学生と障害のない学生が一緒に生活する学校で、ピーターはアウトドアの教員として、学生たちを山などに連れていきます。そうした活動を通して、さまざまなチャレンジを一緒に経験していくんですね。たとえば障害のない学生にとっては、障害のある学生が何を見ていて、どう感じているのか、どうコミュニケーションを取ればいいのか、わからないことだらけですよね。その不安を抱えたまま一緒に活動し、向き合っていく。そのなかで、一人ひとりのケイパビリティが広がっていくわけです。だからこそ、そこには勇気が必要になる。もちろん学生自身の勇気も必要ですが、それをリードする教員の勇気がとても大事です。エグモントでは、教育の現場において「勇気」そのものが専門的で重要な資質なのだと言っているんですよね。
星野:「勇気も専門性だ」と言ってもらえると、楽になるところがあります。勇気を出せるかどうかを、その人のパーソナリティの問題として捉えられてしまうと、「私は勇気が出せない」となってしまう。でも、「勇気を持つことも教員としての専門性だ」と言われると、教員としての矜持に訴えかけてくる言葉だなと思うんですよね。そうすると、自分も専門性の一つとして勇気を出してみよう、と思える。
藤原:不安に取り巻かれているときに、不安から目をそらしても、自分が抱えている深い問題は何も解決しないと思うんです。私は政治学を学んできたので、ナチス・ドイツやファシズムの時代の政治を見ていると、人々の不安を利用することが、権力を握るうえで大きな力になっていたことがわかる。その不安を解消するのではなく、不安を利用して、自分たちの権力へと吸い上げていくことが起きていたわけですよね。だからこそ、不安というものをどう取り扱うのかは、すごく大事なことだと思っています。
もう一つ、キルケゴールの言葉だと思うんですが、ピーターが教えてくれたものがあります。「あえて試みることは、一時的に足場を失うことである。あえて試みないことは、自分自身を失うことである」という言葉です。何かをあえて試みれば、一時的に不安定になる。でも、不安だからといって目をそらしたり、何かを試みることをやめたりしてしまえば、結果的に自分自身を失ってしまうこともある。だから、不安に向き合いながら、あえて一歩踏み出してみることが大事だと言ってくれているような気がします。
星野: 子どもの不適切な行動を目の前にしたとき、本来なら、まず「何がその子をそうさせているのか」を考えるべきです。でも、私も、「信用貯金」のときは不安や苛立ちが自分のなかで大きくなって、一刻も早く子どもの「悪い」行動を止めさせ、「いい」行動をさせたいという思いに支配されてしまっていました。学級通信で、自分の不安を言葉にするのはしんどかったけれど、こういう不安と先生が向き合ったんだということを子どもたちに示すことも、ある意味では「背中を見せる」ということなのではないかなと思うんです。教員ができることはそういう姿を見せることでもあり、キルケゴールの言葉にもつながっていると思いました。
撮影:岩下結
構成:吉田真美(平凡社)