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無償の行為に懸ける人がいた 後藤正治「遠いリング」

写真・恵原弘太郎

 2年余りになるでしょうか。グリーンツダジムに通い詰めたのは。始まりは1987年。雑誌の取材で、日本王者だった井岡弘樹さんにインタビューしました。それ自体は簡単に終えましたし、そもそも生で試合を見たこともありませんでした。
 しかし、ジムの練習風景を眺めていると、これが見飽きない。自分でも何にひかれているのかわからないまま、下町のジムに足しげく通うようになりました。
 井岡さんの指導にあたったのは幾人もの世界王者を育てたトレーナー、エディ・タウンゼントさん。井岡さんの世界取りを支えましたが、病を得て体の自由がきかなくなった。初防衛戦の会場でついに危篤状態になり、病院に搬送。最終ラウンドでの鮮やかな勝利を伝えられ、ほどなく息を引き取った。
 そんな無二の師弟の物語に心を奪われましたが、そればかりではありませんでした。
 通ううちに、ほかのボクサーとも話ができるようになったのです。たいてい訥弁(とつべん)な彼らから百に一つぐらい、心に残る言葉が聞かれる。何か「ほてり」のようなものを感じながら、それを帰りの電車でメモをする。
 ジムに来るまでうつむき加減な若者が、練習に入ると「生きている」感じに満ちてくる。リング上の必死の表情、ミットに打ち込む響き、肉体のまぶしさ。絞ったぞうきんから一滴ずつ絞り出すような減量をしても、汗が噴き出してくる。今なお忘れられない情景が残るのは取材者としても「熱量」を詰めた取材になったからでしょう。

何が残るかでなく、したこと自体に価値

 谷内均という選手を描きました。「嚙(か)ませ犬」と言われ、大きなジムの有望選手と対戦し自信をつけさせる役回りを暗黙のうちに期待される存在でした。
 倒すか倒されるか、とノーガードで突っ込んでいくのが持ち味。後に東洋太平洋王者となる強敵と対戦し、血だるまにされても突進を繰り返した、と伝わっています。マウスピースをはき出し、「こい! 打ってこんかい!」と叫びながら。
 勇猛果敢さにひかれたグリーンツダの会長に誘われ、名古屋の小さなジムから移籍。会長は、谷内さんを「嚙む側」へと反転させようと努めます。
 わたしも苦難の道を歩んできた彼がそれを跳ね返して生きていく姿から目が離せなくなった。韓国で世界ランカーと対戦する機会も得るのですが、結局10年間の戦績は負け越しでした。「遠いリング」の後、続編を書き、引退まで追いました。引退後聞いたボクシングにのめり込んだわけが忘れられません。
 「後藤さん、なぜ本を書いているんですか。いい背広着て大きな会社でサラリーマンやれっていわれても嫌でしょう。同じことよ。この10年、酒も車も女も背広もディスコも何も関係なかった。それはやったらいけないっていわれたからじゃない。自分が乗らなかったからだけなんよ。それよりもずっといいものがボクシングにあると感じてただけなんよ……」
 ボクシングという競技には重大な損傷を負う恐れがある。過酷な練習と減量に耐え、それでも世界王者以外、ファイトマネーはわずかなものです。「ボクシングをやっていた」というキャリアも、後の人生を切り開けるものでもないでしょう。
 ただ描きたかったのは谷内さんのような実存的なボクサー像です。何が残るのかではなく、それをしたこと自体に価値があるのだと、無償の行為を繰り返し、主体的に生きる姿です。
 執筆したのは80年代後半。バブル経済の頃と重なり、世相は「けばく」彩られつつあった。何につけても行為の意味が、「○○に役立つから」と結果ばかりをよりどころに安手に説明されがちな風潮があった。
 当時、青春という言葉は死語になっていた感がありましたが、グリーンツダジムで、それに足る日々を生きる群像を見た。リング上でのみ何かを発露しようとした若者が、流れ星のような光芒(こうぼう)を放つのを確かに見ました。
 全共闘世代のわたしは、「革命などできるはずもない」と思っていながらも逮捕歴あり。損得勘定だけでは動けないたちです。当時40代初めで青春はとうに終わっていましたが、時代が変わっても、無償の行為に自分を懸ける人たちと出会えた。これは幸福なことでした。(聞き手・木元健二)=朝日新聞2016年11月30日掲載