大澤真幸が読む
本書は、人間の意識がどのように事物の本質を捉えるのか、ということについての考え方の違いを基準にして、イスラームやユダヤ教までも含む多様な東洋哲学を分類し、それらの間の位置関係を明らかにした書物である。東洋哲学全体の地図を作成しようとしているのだ。
こんなことができるのは、まず井筒俊彦だけだ。井筒はイスラーム思想を中心にあらゆる東洋哲学に(実は西洋哲学にも)精通していた碩学(せきがく)中の碩学。井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし。こう言いたくなる。
「本質」とは、「Xとは何か」という問いに対する(正しい)答えである。例えば「君主とは何か」への正解が「仁愛なり」なら、仁愛が君主の本質だ。
だが、「正解」が簡単に見つかるわけではない。本書によると、その「見つけ方」に関して三つの考え方がある。瞑想(めいそう)の果ての直観や悟りなど深層の意識の働きを通じて本質を見極めることができるとするもの(朱子学など)。マンダラのようなイメージやシンボルを通じて本質を捉えられるとするもの(密教など)。事物に正しい言葉=名前を与えれば、普通の表層の意識で本質を認識できるとするもの(儒教の名実論など)。
この分類を使うと、一応は第一の種類に入れられるが、この三分類そのものからあと一歩ではみ出すという極限にあるのが禅だとわかる。無心(意識の究極的原点)に至り、事物の本質など存在しないと悟れ、と説くのだから。本質と見えたものは、言葉による世界の区分け(分節)が生み出す錯覚だ、と。
禅とは逆の極限が、カッバーラーと呼ばれるユダヤ教神秘思想。禅と反対に、本質がまさに言葉とともに無から創造されるとする。ただし、その場合の「言葉」は神の言葉である。
こうした紹介から感じ取ってもらえるだろうか。本書を貫いている「普遍」への意志を、である。人類が蓄積してきたあらゆる知を総合して真理に迫ろうとする驚異的な野心。これに深く感動する=朝日新聞2017年6月11日掲載